勉強したくても、経済的理由などでできない奴も多いのに、何不自由なく育ち、それを当たり前だと思う奴ら。こういう奴らに勉強を教えている僕は、時々自分の仕事がいやになることがある。
ソフトにわかりやすく教えて欲しいという。そういうニーズはある程度わかる。
しかしそれだけでは、勉強を理解することはできても、「覚える」ことはできないのだ。経験値を上げるには、そのような間接的な経験ではなく、自分で自問自答した挙句に目的地にたどり着くことが必要なのである。地図をなぞって目的地についた気になっても、実際に行ってみると道に迷い、散々苦労することがあるが、そうしないと道は覚えない。まして、車の助手席に乗って、つれて行ってもらうだけでは、道など覚えようともしないだろう。
ドラゴンなんとかという漫画が流行って、猫も杓子も東大を目指すほどに、情報の並列化が進む。あれで勉強ができるようになるなら、みんな東大へいける。東大へ行くための地図はみんな持てる時代にはなったのだが、地図をなぞるだけでは東大へは行けないということに誰も気がつかない。実際にそれを苦労して使って自分の足で進む者だけがたどり着けるのに。
なんでも要領ばかりが先行する。現代社会は獲得しなければならない情報量に比して時間がないから、だいたいみんな楽して前に進めればいいのだと考えている。しかし、実際に自分の足で前に進まなければだめだ。情報の並列化が進んでも、並列化できないもの、それこそが受験に必要なものである。解りやすい地図は、どこにでもある。また、それをなぞることはできる。でも実際に歩くというのは別の次元の問題なのである。
根性とかの精神論を振りかざすつもりはない。しかし、ひとりで考えるという思考様式というのか、思考習慣というのは、訓練なくしては絶対に身につかないのだ。
解らないことは先生に訊けばいい、というような態度では、決して、独立して思考できるようにはならない。僕は、辞書も引かずに、ことばの意味を訊いてくる子供がずいぶん多くなったと思う。以前六本木ヒルズで先生の講演を訊いたときに、「絶対に教えない」といった先生がいたが、まさしくそうすべだと思う。最近の子供に多いこの種の甘えは、早いうちに断ち切っておかないと、将来ロクな大人にならない。(そういえば、昔、とんでもないのがいた。指導に行くと、今日は腹が痛いから帰ってくれと母親に言わせる。母親もバカな母親で、子供のいうとおりにする。結局数回行っただけでそいつのところへは行かなくなったが、今思えば、ぶん殴ってでもやらせればよかったかもしれない。そっちのほうがその子の為になったかも。)
塾や予備校の講師ならば、わかりやすく地図を描くだけでもいいだろう。
しかし、僕たちの仕事は、そういうわけにはいかない。歩きたくない奴もなかば強引に歩かせなくてはならない。そういうわけで、僕たちの仕事は、ある意味、スポコンドラマのコーチのようになることもある。やさしく解りやすいだけではだめなのだ。それが責任というものかもしれない。
僕は、いままでに教えている子供の大半を泣かしてきた。歩きたくない奴を強引に歩かせてきた。それが気に食わないのなら、やめてもらってかまわない。「僕なんかより、もっといい先生に教えてもらってください」といって、こちらから断ることもある。自分で歩けない奴には責任が取れないからだ。誤解を恐れずにあえて言えば、泣きながらでもついてくる奴は、きっと独りで歩いて自分なりの目的地に行ける。
この仕事の醍醐味があるとしたら、歩けなかった人を歩けるようにさせ、行きたいところの地図を持たせて、実際に自分の足でそこへ行ってくれた時に味わう喜びかもしれない。
受験が終わるまでもう少し。僕ももうひとふんばりしよう。僕も自分の地図で歩きたい。
ソフトにわかりやすく教えて欲しいという。そういうニーズはある程度わかる。
しかしそれだけでは、勉強を理解することはできても、「覚える」ことはできないのだ。経験値を上げるには、そのような間接的な経験ではなく、自分で自問自答した挙句に目的地にたどり着くことが必要なのである。地図をなぞって目的地についた気になっても、実際に行ってみると道に迷い、散々苦労することがあるが、そうしないと道は覚えない。まして、車の助手席に乗って、つれて行ってもらうだけでは、道など覚えようともしないだろう。
ドラゴンなんとかという漫画が流行って、猫も杓子も東大を目指すほどに、情報の並列化が進む。あれで勉強ができるようになるなら、みんな東大へいける。東大へ行くための地図はみんな持てる時代にはなったのだが、地図をなぞるだけでは東大へは行けないということに誰も気がつかない。実際にそれを苦労して使って自分の足で進む者だけがたどり着けるのに。
なんでも要領ばかりが先行する。現代社会は獲得しなければならない情報量に比して時間がないから、だいたいみんな楽して前に進めればいいのだと考えている。しかし、実際に自分の足で前に進まなければだめだ。情報の並列化が進んでも、並列化できないもの、それこそが受験に必要なものである。解りやすい地図は、どこにでもある。また、それをなぞることはできる。でも実際に歩くというのは別の次元の問題なのである。
根性とかの精神論を振りかざすつもりはない。しかし、ひとりで考えるという思考様式というのか、思考習慣というのは、訓練なくしては絶対に身につかないのだ。
解らないことは先生に訊けばいい、というような態度では、決して、独立して思考できるようにはならない。僕は、辞書も引かずに、ことばの意味を訊いてくる子供がずいぶん多くなったと思う。以前六本木ヒルズで先生の講演を訊いたときに、「絶対に教えない」といった先生がいたが、まさしくそうすべだと思う。最近の子供に多いこの種の甘えは、早いうちに断ち切っておかないと、将来ロクな大人にならない。(そういえば、昔、とんでもないのがいた。指導に行くと、今日は腹が痛いから帰ってくれと母親に言わせる。母親もバカな母親で、子供のいうとおりにする。結局数回行っただけでそいつのところへは行かなくなったが、今思えば、ぶん殴ってでもやらせればよかったかもしれない。そっちのほうがその子の為になったかも。)
塾や予備校の講師ならば、わかりやすく地図を描くだけでもいいだろう。
しかし、僕たちの仕事は、そういうわけにはいかない。歩きたくない奴もなかば強引に歩かせなくてはならない。そういうわけで、僕たちの仕事は、ある意味、スポコンドラマのコーチのようになることもある。やさしく解りやすいだけではだめなのだ。それが責任というものかもしれない。
僕は、いままでに教えている子供の大半を泣かしてきた。歩きたくない奴を強引に歩かせてきた。それが気に食わないのなら、やめてもらってかまわない。「僕なんかより、もっといい先生に教えてもらってください」といって、こちらから断ることもある。自分で歩けない奴には責任が取れないからだ。誤解を恐れずにあえて言えば、泣きながらでもついてくる奴は、きっと独りで歩いて自分なりの目的地に行ける。
この仕事の醍醐味があるとしたら、歩けなかった人を歩けるようにさせ、行きたいところの地図を持たせて、実際に自分の足でそこへ行ってくれた時に味わう喜びかもしれない。
受験が終わるまでもう少し。僕ももうひとふんばりしよう。僕も自分の地図で歩きたい。