偉大な友人に送ってもらった画像です。
鳥居なんですが、普通の鳥居とは違って、脚が三本の珍しい形。
京都太秦の広隆寺の近くにある「三本鳥居」です。
太秦は、渡来人で養蚕などを伝えた、「秦氏」の本拠地です。
日本に渡来した秦氏一族がネストリウス派キリスト教徒(景教徒)であり
しかもイスラエル人のキリスト教徒だったことは、多くの証拠が示しています。
この京都で秦氏が本拠地として住んだ地には、この「ウズマサ」の名がつけられています。
漢字では「太秦」ですが、これはもともと「ウズマサ」とは読めないから、当て字ですね。
ウズマサという音が最初にあり、のちに漢字が当てはめられたのです。
シルクロード一帯のキリスト教徒の間では、「イエス・キリスト」は
アラム語で「イシュ・マシャ(Ish Mashiah)」と呼ばれていました。
イシュはイエス、マシャはメシア(救い主)の意味です。
シルクロード一帯ではアラム語が共用語だったのでギリシア語由来の「イエス・キリスト」ではなく
アラム語の「イシュ・マシャ」が使われていたのです。
地域によっては、「ウシュ・マシャ」となったり、「ウス・マシャ」となったりしました。
これが日本で「ウズ・マサ」となり、すなわちウズマサは、「イエス・キリスト」の意味なのです。
↓このことは、この本に詳しく書いてあります。
聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎 (Natura‐eye Mysteria) | |
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徳間書店 |
そしてさらに、広隆寺の近くに、「大酒神社」という神社があり、昔は、「大避神社」と書いたのですが、
そこには、「いさら井」という井戸があったそうです。司馬遼太郎によると、「大避」は、中国では「大闢」といい
「ダビデ」の意味だそうです。そして、この「いさら井」は、「イスラエル」が訛ったものであるというのです。
そうしてみると、この「ウズマサ」の秦氏は、イエス・キリストを祭るために、「大酒神社」を作ったのではないでしょうか。
そして、この冒頭の画像の「三本鳥居」は、キリスト教のトリニティー、つまり、「父と子と聖霊」の「三位一体」
を表しているのではないでしょうか?
そもそも、秦氏は何者なのか?秦氏は、イスラエルの失われた十部族の末裔だという説があります。
以下は、このページからの引用です。
先の「聖書に隠されたユダヤ・日本の封印の古代史~失われた10部族の謎」の内容の一部だそうです。
イスラエルの失われた十部族は日本に来たか
ラビ・トケイヤーは、そのほかにも非常に多くの事柄をあげて、イスラエルの失われた十部族の人々がとくにシルクロード付近に足跡を残していることを例証している。
ではシルクロードの終点はどこか。日本である。
イスラエルの失われた十部族は中国までやって来ていた。彼らの一部はアフガニスタンや、カシミール、インド、ミャンマー、中国などに、住み着いた。
しかし、それで終わりだろうか。その他の人々、あるいは本隊の人々はさらに東に向かい、日本にまで到達したということは考えられるだろうか。
ラビ・トケイヤーは、つぎに、日本には様々な古代イスラエルとの類似点が見られることを指摘する。その内容は、じつに豊富である。
これまでこの問題については、数多くの本が出されてきたが、多くは皮相的なものであったり、厳密な検証には耐えられない表面的なものが多かった。
しかしラビ・トケイヤーは、あらゆる角度から、古代日本と古代イスラエルとの接点について取り上げている。
彼はまず、諏訪大社にイサク奉献伝承が古来あることに着目する。また、イスラエルの契約の箱
と神社の御神輿の類似、イスラエルの祭司の服と神社の神主の服の類似、神主のお祓いの仕草と古代イスラエルの風習との類似、イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似、そのほか様々なイスラエルの風習と日本神道の風習との類似を取り上げている。
彼はまた、日本神道の汚れと禊ぎの観念について次のように述べている。彼の言葉を引用しよう。
清めに水や塩を用いること
日本神道では、清め(禊ぎ)のために、水や塩を用いる風習がある。
日本の神社は、たいてい清流や、きれいな水の池、湖、海などの近くに建てられている。これはそれらの川や池などで、禊ぎ(身の清め)を行なうためである。水は、神道において人を清めるためのものでもあった。
古代イスラエルにも、水で体を清める風習があった。
「祭司は、その衣服を洗い、その体に水を浴びよ。そののち、宿営に入ることができる」(民数記一九・七)
だから古代イスラエルにおいては、礼拝所の近くに清らかな水があることが理想とされたのである。日本神道の神官も、神社で仕える前に必ず衣服を洗ってきれいにし、水浴して禊ぎをする。仏教(とくに顕教)の僧侶には、一般的にこのような風習はない。
日本神道ではまた、塩も、清めのために用いられる。
日本の相撲の力士は、対戦を前に土俵に塩をまく。欧米人はこれを見ても、何の意味だろうと思う。しかしユダヤ人なら、それは土俵を清めるためだと即座に理解する。日本では神社など聖地の清め、御神輿の清めなどにも塩が用いられる。
日本の料亭などに行くと、しばしば入り口に一握りの塩をもってある(盛り塩)。欧米の人々はそれを見ても、何の意味かわからない。しかしユダヤ人なら、これは清めのためだと即座に理解する。
ユダヤ人にはまた、新しい隣人や大切なお客様を、塩をもって迎える風習がある。たとえば、ある世界的なリーダーがエルサレムを訪問したとしよう。そのようなときイスラエルの主席ラビは、エルサレムの入り口で、ハラー(パン)と塩をもって彼を迎えるのである。
ユダヤ人は食事を、パンに塩をふりかけることから始める。これは食卓を一種の聖なる祭壇とする行為なのである。肉も、食べる前に必ず塩づけにされる。これは肉からすべての血を抜き、肉を清めるためである。
日本では、神前の供え物には必ず塩が添えられる。祭の時の供え物もそうである。仏前には塩は捧げない。神前に塩を捧げるのは、古代イスラエルの風習である。
「あなたの捧げ物には、いつでも塩を添えて捧げなければならない」(レビ記二・一三)
と聖書に記されているからである。タルムード(ユダヤ教の教典)にも、すべての供え物や犠牲の供え物に塩を欠かしてはならないと記されている。塩は腐敗を防ぐ。
一方でユダヤ教では、蜜やパン種(イースト菌)などは、供え物には禁じられている。これらは発酵をもたらし、分解や腐敗を促進するもので、塩とは反対のものだからである。
聖書には「永遠の塩の契約」(民数記一八・一九)という言葉がある。塩は反腐敗、保存性、永遠性の象徴で、神による不壊にして聖なるきずなを象徴しているのである。
古代ユダヤの神殿には、塩を保存するための特別な部屋があった。一世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは、三七五のかご一杯の塩をこの神殿に奉納したギリシャの王について書いている。ユダヤ教において、塩は本質的な役割を果たしているのである。
また小谷部全一郎によると、日本には明治維新以前に、新たに誕生した赤児の産湯に、少量の塩を入れる習慣があったという。古代イスラエルにも、新たに生まれた赤児を塩でやわらかくこすり、水で洗い清める風習があった。聖書の中にも、それに関する言及がある(エゼキエル書一六・四)。
塩には洗い清める作用があり、衛生上の理由からも、新生児は塩でやわらかくこすられたのである。このように、古代イスラエルと日本に共通して「禊ぎ」の考え方があった。そしてその禊ぎのために、イスラエルでも日本でも同様に、水あるいは塩が用いられたのである。
死者の汚れの観念
日本では、お葬式に参加すると、参列者に「お清め塩」が配られる。参列者は、自分の家に帰ったとき、玄関前でそのお清め塩を頭に振りかけてもらわなければならない(塩祓い)。そうやって身を清めてからでないと、家に入れてもらえないからである。
古代イスラエルでも、葬式に参加した人や、死体に触れた人は、決められた方法で禊ぎをしなければならなかった。
「身の清い人が……ヒソプを取ってこの水に浸し、それを……死人や墓に触れた者の上に振りかける」(民数記一九・一八)
こうやってイスラエルでも、死体にふれた者は禊ぎをして身を清めなければならなかった。今日も、ユダヤ人墓地の入り口には必ず水の備えがある。ユダヤ人の家の玄関の近くにもある。それは、墓やお葬式に行ってから帰ってきたとき、そこで禊ぎをするためである。
日本神道の神話においても、イザナギは、妻のイザナミを「黄泉」の国(死者の世界)から連れ返そうとそこに行き、帰ってきたとき、死者の汚れを祓うために川で水浴して禊ぎをしたと記されている。
ちなみにこの「黄泉」という神道の死者の世界も、旧約聖書でいう「シェオル」(日本語で「よみ」と訳されている一般的死者の世界)によく似ている。
日本神道の重要な特徴は、死者の汚れ(穢れ、忌み)の観念を持っていることである。死人を出した家や、葬式に参加した人などは、「汚れに触れた」と言われる。欧米人には、このような「汚れ」の観念はない。
この「汚れ」は物質的な汚れではなく、宗教的、儀式的な汚れである。こうした日本神道の死者の汚れの考え方は、古代イスラエルにあったものと同じである。
「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間汚れる」(民数記一九・一一)
と旧約聖書に記されている。日本神道でも同様に、家族に死人が出たときや、親族に死人が出たとき、一定期間「汚れている」とみなされている。
この期間には、人は神社に参拝することもできない。古代イスラエルでも、汚れの期間にある人は神殿に来ることを許されなかった。
仏教の葬儀は寺の中で行なわれるが、神道式の葬儀は、必ず神社以外の場所で行なわれる。それは汚れを神社内に持ち込まないためである。また葬儀に参加した神主は、葬儀に用いたものを境内に持ち込まない。たとえ持ち込む場合でも、必ず禊ぎをして清めてから持ち込む。
また自分自身をも清めなければならない。古代イスラエルにおいても、神殿では決して葬儀は行なわれなかった。
聖書にはまた、古代イスラエル人はモーセとアロンの死の際に、「三〇日間」泣き悲しみ、喪に服したと記されている(申命記三四・八、民数記二〇・二九)。一方、一〇世紀に日本でつくられた『延喜式』によると、汚れにふれて神事にたずさわってはいけない忌みの日数を、人の死ならば「三〇日」と定めている。
また三ヶ月以内の胎児の流産や、手足の一部を欠いた者の死体の汚れは「七日」の忌みとされている。このように死体の汚れに関する日本神道の考えと、古代イスラエルの風習はたいへんよく似ているのである。
女性の月経や出産に関する観念
死体の汚れだけではない。日本には女性の月経や、妊娠中、また産後に関する汚れ(忌み)の観念が古代からある。
古来、日本では月経(生理)中の女性は神事に参加してはならなかった。夫との性交渉もさけられ、彼女は内に設けられた共同の別小屋(月経小屋)に、月経中およびその後の数日あるいは七日程度にわたって、こもらなければならなかった。この風習は明治頃まで広く日本中に見られたものである。
また、その忌みの期間が終わると、女性は川や泉、海などの自然の水で身を清めることが求められた。ただ自然の水がないときは、浴槽でもよいされた。
これは古代イスラエルの風習にたいへんよく似ている。イスラエルにおいても、月経中の女性は神事に参加できず、夫から離れて、別小屋にこもることが行なわれた。こもる期間は、月経中およびその後の七日間だった(レビ記一五・一九、二八)。この「こもる」ことを「血のきよめのためにこもる」といった。それは清めのため、また汚れを家や村に持ち込まないためであった。
同様の風習は今もユダヤ人の間にある。女性は生理中およびその後の七日間、夫との性交渉を禁じられている。そののち女性はミクベ(沐浴)をして、水で身を清めるのである。
このように生理中とその後の期間にわたって汚れの観念があり、夫との隔たりを持つ風習があるのは、ユダヤ人と日本人だけであろう。これは、古代における両者の深いつながりを示す重要な証拠に違いない。
「汚れ」という観念は、現代の人々からすれば不合理と思えるかもしれないが、月経、妊娠中、また産後の女性は肉体的にも精神的にも不安定であり、静養が必要なのである。女性自身も、この期間は自分の血が汚れていると感じるという。「血のきよめのためにこもる」というのは、その静養の必要を述べている。
月経だけでなく、出産に関する観念も、古代イスラエルのものと日本神道のものはよく似ている。
日本では古来、出産をする母親は、妊娠中および産後の一定期間「汚れている」とみなされてきた。現代の日本ではそのような観念は希薄になったが、古い時代には、この観念はきわめて一般的であった。
『延喜式』には、汚れにふれて神事にたずさわってはいけない忌みの日数を、出産の場合は「七日」と定めている。これは古代イスラエルの風習にたいへんよく似ている。
「女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。……その女はさらに三三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。……もし、女の子を産めば……二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血のきよめのために、こもらなければならない」(レビ記一二・二~五)。
日本でも、妊娠中、および産後の女性は一定期間、「産屋」と呼ばれる特別に設置された小屋に「こもる」習慣が、広く明治頃まで見られた。古事記にも「産屋」が出てくる。そのこもる期間は、一般的に出産後三〇日前後までとされるところが多かった(長い所では一〇〇日近くに及んだ)。これは、古代イスラエルの風習によく似ている。
古代イスラエルでは、この静養期間のあとに、母親は子どもと共に初めて宮詣でをすることができた。
日本神道の風習でも、産の忌みの期間があけたのち、その子どもを連れて「初宮詣」(初めての宮詣で)をすることができる。現在の日本では、初宮詣はふつう、男子の場合は生後三二日目(または三一日目)、女子の場合は生後三三日目に行なわれることが多い。
ただし神社に初宮詣をするとき、子どもを抱くのは母親ではない。母親以外の者││ふつう夫の母(姑)がこれを行なうのが古くからの習慣である。これは、古代イスラエルにおける母親の産後の汚れの観念に非常によく似ている。
またラビ・トケイヤーは、日本に割礼の風習が見られるか否かについて、次のように述べている。
お七夜
日本にもしイスラエル人がやって来たのであれば、日本には割礼の風習があるであろうか。
私は、日本の皇室で割礼が行なわれているという噂を聞いたことはあるが、一般には、日本に割礼の風習があったか否かを確かめることができていない。
今日の一般の日本人の間には割礼の風習はない。しかし、日本には古来「お七夜」といって、生まれてきた子どもを親戚や知人に披露し子どもの名前を紹介する時を、生後七日目の夜に行なう風習がある。
生後七日目の夜というのは、ユダヤ式の数え方でいうと、生後八日目にあたる。ユダヤでは日没から日没までが一日で、日没が来ると次の日になるから、七日目の夜は八日目なのである。
この風習は、『生後八日目の割礼』というイスラエル人の風習の名残なのだろうか。イスラエル人は生後八日目に親戚や知人の前で男子の誕生を披露し、割礼を施し、名前を述べて、共に子の誕生を喜び合った(女子の場合は最初の安息日)。現在もそうである。それまでの七日間、子どもに名前はない。これは日本の風習と同じである。
ラビ・トケイヤーはまた、仮庵の祭と日本の風習について次のように述べる。
仮庵の祭と中秋の名月
日本には、旧暦の八月一五日に、「一五夜」という風習がある。
これは新暦では九月中旬~一〇月上旬頃である。日本で「十五夜」の日は、ユダヤ暦ではちょうど第七月(ティシュレイ)の一五日であり、仮庵の祭の日にあたる。つまり日本で「十五夜」を行なっているとき、ユダヤでは仮庵の祭を行なっているのである。
「十五夜」のとき、日本人は伝統的にしばしば仮庵を建て、そこに家族や親戚が集まった。ススキを花瓶にさし、団子や里芋や梨など、その時期の成り物を供えて、「中秋の名月」をながめて、お月見をする。
古代イスラエルにおいては、北王国イスラエルでは八月一五日に、南王国ユダでは七月一五日に、仮庵を建て、そこに家族や親戚が集まった。そしてその時期の成り物を供え、中秋の名月を鑑賞しながら、その年の収穫を喜んだのである(レビ記二三・三九~四二)。
収穫を供えることと仮庵の祭
日本にはまた、古来、収穫の初穂を神に捧げる優美な風習がある。日本人は「おはつほ」と言って、穀物や果物、そのほか製作した作品の初めて取得した一部を、初穂としてまず第一に神に捧げる。
毎年一〇月(旧暦時代は九月)に伊勢神宮を中心に行なわれる「神嘗祭」は、収穫の初穂を神に捧げる祭である。初穂を神に捧げる風習は、古代イスラエル人も同様に持っていた。
「あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない」(出エジプト記三四・二六)
と聖書に記されている。興味深いことに伊勢神宮では、神嘗祭の時には、神宮で使われている衣や机、道具などがすべて新調される。新年を迎えるような気持ちですべて新調するのだという。ユダヤ教でも、収穫の祭である「仮庵の祭」が行なわれる月(ティシュレイの月 太陽暦では九~一〇月)は、また新年でもある。
また伊勢神宮の一〇月の神嘗祭の約一ヶ月後、皇室を中心に「新嘗祭」というものが行なわれる。これも神嘗祭と同様、収穫を捧げる収穫祭である。
新嘗祭は次のようにして行なわれる。新嘗祭は午後六時に始まり、終了するのは午前一時頃である。それは夜行なわれる。
そのとき天皇は、収穫の一部を神に捧げ、そののちそれを神の前で食する。天皇はこれによって、民を導く指導者としての役割を神から授けられるのである。
かつて古代イスラエルでも、イスラエルの指導者たち、モーセ、アロン、長老七〇人、その他は、神の前で食することを行なった(出エジプト記二四・一一)。
また、天皇が即位後初めて行なう新嘗祭を、とくに「大嘗祭」と呼ぶ。大嘗祭のときには、収穫を捧げるための特別な仮庵が建てられる。今上天皇(現在の天皇)の大嘗祭のときにも、大きな仮庵が建てられた。そして一連の儀式が終了したのち、取り壊され、燃やされた。
大嘗祭も夜行なわれる。それは午後六時半から翌朝未明まで行なわれた。そのとき天皇は神の前に収穫を捧げ、神の前でそれを食した。古代イスラエル、また今日のイスラエルにおいても、仮庵の祭は日没と共に始まる。人々は仮庵の中に入り、それを収穫で飾り、神の御前で共に食べて喜ぶのである。
日本にはまた、ユダヤの過越の祭が見られるだろうか。ラビ・トケイヤーは次のように述べる。
琉球の「看過」とユダヤの「過越」
ユダヤ人には、古くから「過越の祭」と呼ばれる風習がある。これは聖書の「出エジプト記」に起源を持つもので、今から三千年以上前にエジプトで奴隷だったイスラエル民族が、モーセの指揮のもとエジプトから大脱出した出来事を覚えるものである。
イスラエル民族がエジプトを脱出する前夜、「過越」と呼ばれる出来事があった。これは、すべての家庭の長男が死ぬという災禍がエジプトの国に下ったとき、ただイスラエル人の家庭だけはその災いが「過ぎ越した」というものである。
イスラエル人は、その災いが来る前に、神の命令によって小羊をほふり(殺し)、その血を家の門口に塗っていた。彼らは血をヒソプという植物の束に浸し、家の門口に塗った(出エジプト記一二・二二)。その血の塗ってある家庭は、さばきの天使がそこを過ぎ越したのである。イスラエル人は、ほふったその小羊をその夜、焼いて食した。
これによく似た風習が、日本の琉球地方(南西諸島)に今も伝わっている。
中田重治は、琉球地方には「看過」と呼ばれる、牛をほふってその血を家の門口に塗る厄祓いの風習があると述べていた。このとき羊ではなく牛が用いられたのは、日本には羊がいなかったからであると、中田は考えていた。
私は、日本人の友人の助けを借りて、この「看過」の風習について沖縄の教育委員会や町史編集委員会に問い合わせしてみた。すると事実、古くから「看過」あるいは「シマクサラシ」(厄祓いの意)と呼ばれる風習があるという。
これは災厄を家や村に入れないために、牛をほふり、その血をススキの穂や、桑の葉等の植物に浸して、家の門口や四隅、村の入り口等に塗るというものである。その牛は、その日、焼いて皆で食された。
これはまさに、ユダヤの過越の風習を思い起こさせる。ちなみに「看過」という日本語は、見過ごす、見のがすの意味で、過越と同じ意味である。
「看過」の風習は今日も行なわれている。ただし今日は、牛ではなく、豚を使用している町が多い。「どうして豚を?」と聞くと、昔、牛を殺すことを禁じる禁止令が出たので、豚に変えたという。
また看過の風習は、おもに旧暦の二月初旬、および八月初旬などに行なわれている(年二~三回)。旧暦の二月というのは春であり、新暦では三~四月頃にあたって、ユダヤの過越の祭と大体同時期であることも興味深いことである。
聖書によれば過越の小羊は、ユダヤ暦ニサン(アビブともいう)の月の一四日にほふられた。これは太陽暦では、三~四月頃に相当するのである[看過すなわちシマクサラシの風習については、『沖縄大百科事典』(沖縄タイムズ社刊)にも解説がある]。
こういうところから、やはり、日本は、ユダヤ人の血が保たれているのかもしれません。
他にも、秦氏が建築にたずさわった平安京を、ベブライ語で表現すれば、エルサレムだとか、祇園祭り=シオン祭りとか、いろいろと言われているようです。
また、例の話をしながら盛り上がりましょう!
そのうちまた飲みに行きましょうね!
イエスキリストが、日本に逃れて、日本で亡くなり、お墓があるという話で、これ自身は???ですが、確かに、ユダヤの伝統を伝えているものがあるそうです。
「へらい村」は、ヘブライからきたのでは?
また、ダビデの印とそっくりの模様があったり、赤ちゃんを寝かせる籠が、ユダヤのものとそっくりとか・・・
私もとても興味があります。
ヘライ村は、今は、青森県三戸郡新郷村というらしいのですが、「キリストの墓」の前で、「ナニャドヤラ」という踊りが奉納されるという話です。
「ナニャドヤラ、ナニャドナサレノ、ナヤドヤラ・・・」と歌いながら踊るらしいです。
二戸出身の川守田英二博士が、「ナニャドヤラ」は、古代ヘブライ語で、「主権者をしてエホバの神を讃えしめよ、主権者は毛人カヘノ族を掃討せり、一天万乗の主権者をしてエホバの神を讃えしめよ」と訳せるというのです!
ここもそのうちに言ってみたいです!!!