夫の絶望を知るよしもなく、藤村は着任した。
彼は昇進に張り切っていたが
さりとて何をしていいのか、わからない様子。
夫の方は渋々ながら相手をしているうちに
腐った嘘つきの松木氏より
純正の昼あんどん、藤村の方がずいぶんマシだと感じたらしく
じきに自ら歩み寄った。
藤村に土建業の経験があるのも幸いした。
生コン会社出身で、生コン以上に頭の固いの松木氏より
土建を知る藤村の方が話が通じるからだ。
そのうち5月が終わり、問題の6月に入った。
いよいよ今月は入信しなければならない。
教団の会館へ連れて行かれ、入会金の4万円と引き換えに
チャチな御守りをしたり顔で授けられ
聞くのも恥ずかしいお経だか祝詞だかを唱和させられる夫‥
ああ、想像するだけでもフ・ビ・ン。
が、考えても仕方がない。
自分が身代わりになる気はさらさら無いのだ。
まかり間違って夫が熱心な信者となり
教団の方針に添って、ワシも無農薬の米や野菜を作るだの
教団が推奨する生け花をワシも習うだのと言いだしたら
見ものかもしれない。
そして教団の教え通り、家庭第一の男になったら笑わせるではないか。
ただ、金持ちにはなれそうもない。
以前、ダイちゃんに言われて会館へ赴いた時
豪華絢爛な建物とは裏腹に、ズラリと並んだ信者たちの車は
見事に古いポンコツばかりだった。
皆さん献金に忙しいのか、車どころではなさそう。
会館に入る時は、あらかじめ持参するように言われていた靴下を
老いも若きも重ね履きしてスリッパ代わり。
高そうな木張りの床に、傷が付くのが惜しいらしい。
その貧乏くさい発案に、頭がクラクラした記憶がある。
まあ、考えたってどうにもならないことは考えないに限る。
こだわって考えるほど、事態が悪化するのは何度も経験してきた。
ダイちゃんから「そろそろ‥」と言われるまで、忘れていようと決めた。
それから数日後、神風は吹いた。
本社の若い社員A君から夫に電話がある。
「ヒロシさん、大ニュースです!」
A君の話によると‥
ダイちゃんはこの春に新卒入社したB君の家へ行き、宗教の勧誘をした。
驚いたB君は会社を辞めると言いだし
それを聞いた親が怒って、本社へ抗議に行った。
社長はダイちゃんを呼んで
勧誘をやめるか、会社をやめるかの二者択一を迫った。
息子がまだ大学生のダイちゃんは前者を選び
二度と社内で勧誘しないことを社長に誓った。
‥ということであった。
後日、ダイちゃんは担当していた支社や支店の管理から外された。
この中には我が社も含まれている。
彼がそれらを回って、息抜きや勧誘をする機会は無くなったのだ。
つまりダイちゃんは、もう来ない。
この措置は、宗教勧誘のペナルティーだと格好がつかないため
「今後は若手中心で行う」という名目上の理由が付けられた。
社則には、OBを含めた社員同士の宗教勧誘を
全面禁止する項目が追加された。
OBと付いたのは、ダイちゃんの定年が来年に迫っているからだ。
彼の勧誘活動は未来永劫、封じられたのである。
それにしてもダイちゃん、新入社員の家に行くなんて
やはり狂ったとしか言いようがない。
これが宗教の恐ろしさだ。
神風というより、自滅かも。
彼が去年あたりから、おかしくなってきたのは知っていた。
我々がなかなか首を縦にふらないので、イライラしたのだろうが
全く別のことで急に興奮して怒り出し、本をテーブルに叩きつけたり
書類を投げたりした。
怒号を発しながら暴れる光景は、見苦しいものだった。
が、我々は義父の激昂で慣れているため
壊れたダイちゃんを冷ややかに眺めていた。
あの時、怖いと言って嘘泣きでもしてやればよかったと
後で残念に思った。
ダイちゃんが社長に呼ばれた時、河野常務は彼をかばったという。
「教団では女房の方が身分が上だから、焦っていたんですよ」
その話を聞いた我々一家は、口を揃えた。
「やっぱり‥」
これには二つの意味があった。
以前から感じていた通り、河野常務は何もかも知っていた「やっぱり」と
必ずダイちゃんを擁護するに違いない「やっぱり」である。
うっかり告げ口しなかったのは正解だった。
深読みになるが、もしや常務が我々の困難までも知っていたとなると
夫がダイちゃんの悪口を言いつける人間かどうか
試していたのかもしれない。
一方で、何も知らない第三者の藤村を常駐させ
ダイちゃんを勧誘しにくい状況にしたのかもしれなかったが
常務は今までも沈黙を守ったし、これからも何も言わないだろうから
真相はわからない。
いずれにしても「困ったことよ」と思いつつ、目をそむけていた事柄を
人の口によってほじくり返されるのは、誰しもいい気持ちではない。
常務がどんなにいい人でも
ダイちゃんのやっていることが明らかに悪いことでも
究極の選択になった場合、付き合いの長い方が勝ち
常務は我々の敵に回っただろう。
社長への抗議も、新入社員の親だったから進展したのだ。
人材育成がマイブームの社長は
会社の未来を担う若者に手を出したから動いた。
年寄りの我々がやったところで
「善処します」とあしらわれて終わったはずである。
「よそから来て、さんざん世話になっておきながら
何をえらそうに揉め事を持ち込むのだ」
正邪に関係なく、人の心は必ずこうなり
我々はトラブルメーカーの扱いになったはずだ。
継子創業47年、嫁の営業38年
私はこの心理を思い知っている。
義父の会社を本社に救ってもらった恩義がある我々には
やはり神風を待つ以外、方法は無かったと思っている。
変なのばっかり雇って、どうなっとるんじゃ‥
人はそう思うかもしれない。
けれども会社組織というのは、こういうものである。
1割のまあまあと、3割のお人好し
あとの6割は勘違いの昼あんどんで構成されている。
この割合に変化が起きれば、急成長か倒産だ。
これから先がどうなるかわからない。
このままかもしれないし
ダイちゃんは早々に許されて元通りになるかもしれない。
やれやれ、やっとダイちゃん問題が片付いたと思っていたら
今度は還暦を過ぎた夫の肩叩きが始まるかもしれない。
が、どうなってもかまわない。
夫を宗教の人身御供に捧げなくて済んだのだから
贅沢は言わずにおこうと思う。
そんな私のさしあたっての興味は、藤村の結婚。
フィリピーナのテレサと無事ゴールインできるのか。
この物見高さは治りそうもない。
《完》
彼は昇進に張り切っていたが
さりとて何をしていいのか、わからない様子。
夫の方は渋々ながら相手をしているうちに
腐った嘘つきの松木氏より
純正の昼あんどん、藤村の方がずいぶんマシだと感じたらしく
じきに自ら歩み寄った。
藤村に土建業の経験があるのも幸いした。
生コン会社出身で、生コン以上に頭の固いの松木氏より
土建を知る藤村の方が話が通じるからだ。
そのうち5月が終わり、問題の6月に入った。
いよいよ今月は入信しなければならない。
教団の会館へ連れて行かれ、入会金の4万円と引き換えに
チャチな御守りをしたり顔で授けられ
聞くのも恥ずかしいお経だか祝詞だかを唱和させられる夫‥
ああ、想像するだけでもフ・ビ・ン。
が、考えても仕方がない。
自分が身代わりになる気はさらさら無いのだ。
まかり間違って夫が熱心な信者となり
教団の方針に添って、ワシも無農薬の米や野菜を作るだの
教団が推奨する生け花をワシも習うだのと言いだしたら
見ものかもしれない。
そして教団の教え通り、家庭第一の男になったら笑わせるではないか。
ただ、金持ちにはなれそうもない。
以前、ダイちゃんに言われて会館へ赴いた時
豪華絢爛な建物とは裏腹に、ズラリと並んだ信者たちの車は
見事に古いポンコツばかりだった。
皆さん献金に忙しいのか、車どころではなさそう。
会館に入る時は、あらかじめ持参するように言われていた靴下を
老いも若きも重ね履きしてスリッパ代わり。
高そうな木張りの床に、傷が付くのが惜しいらしい。
その貧乏くさい発案に、頭がクラクラした記憶がある。
まあ、考えたってどうにもならないことは考えないに限る。
こだわって考えるほど、事態が悪化するのは何度も経験してきた。
ダイちゃんから「そろそろ‥」と言われるまで、忘れていようと決めた。
それから数日後、神風は吹いた。
本社の若い社員A君から夫に電話がある。
「ヒロシさん、大ニュースです!」
A君の話によると‥
ダイちゃんはこの春に新卒入社したB君の家へ行き、宗教の勧誘をした。
驚いたB君は会社を辞めると言いだし
それを聞いた親が怒って、本社へ抗議に行った。
社長はダイちゃんを呼んで
勧誘をやめるか、会社をやめるかの二者択一を迫った。
息子がまだ大学生のダイちゃんは前者を選び
二度と社内で勧誘しないことを社長に誓った。
‥ということであった。
後日、ダイちゃんは担当していた支社や支店の管理から外された。
この中には我が社も含まれている。
彼がそれらを回って、息抜きや勧誘をする機会は無くなったのだ。
つまりダイちゃんは、もう来ない。
この措置は、宗教勧誘のペナルティーだと格好がつかないため
「今後は若手中心で行う」という名目上の理由が付けられた。
社則には、OBを含めた社員同士の宗教勧誘を
全面禁止する項目が追加された。
OBと付いたのは、ダイちゃんの定年が来年に迫っているからだ。
彼の勧誘活動は未来永劫、封じられたのである。
それにしてもダイちゃん、新入社員の家に行くなんて
やはり狂ったとしか言いようがない。
これが宗教の恐ろしさだ。
神風というより、自滅かも。
彼が去年あたりから、おかしくなってきたのは知っていた。
我々がなかなか首を縦にふらないので、イライラしたのだろうが
全く別のことで急に興奮して怒り出し、本をテーブルに叩きつけたり
書類を投げたりした。
怒号を発しながら暴れる光景は、見苦しいものだった。
が、我々は義父の激昂で慣れているため
壊れたダイちゃんを冷ややかに眺めていた。
あの時、怖いと言って嘘泣きでもしてやればよかったと
後で残念に思った。
ダイちゃんが社長に呼ばれた時、河野常務は彼をかばったという。
「教団では女房の方が身分が上だから、焦っていたんですよ」
その話を聞いた我々一家は、口を揃えた。
「やっぱり‥」
これには二つの意味があった。
以前から感じていた通り、河野常務は何もかも知っていた「やっぱり」と
必ずダイちゃんを擁護するに違いない「やっぱり」である。
うっかり告げ口しなかったのは正解だった。
深読みになるが、もしや常務が我々の困難までも知っていたとなると
夫がダイちゃんの悪口を言いつける人間かどうか
試していたのかもしれない。
一方で、何も知らない第三者の藤村を常駐させ
ダイちゃんを勧誘しにくい状況にしたのかもしれなかったが
常務は今までも沈黙を守ったし、これからも何も言わないだろうから
真相はわからない。
いずれにしても「困ったことよ」と思いつつ、目をそむけていた事柄を
人の口によってほじくり返されるのは、誰しもいい気持ちではない。
常務がどんなにいい人でも
ダイちゃんのやっていることが明らかに悪いことでも
究極の選択になった場合、付き合いの長い方が勝ち
常務は我々の敵に回っただろう。
社長への抗議も、新入社員の親だったから進展したのだ。
人材育成がマイブームの社長は
会社の未来を担う若者に手を出したから動いた。
年寄りの我々がやったところで
「善処します」とあしらわれて終わったはずである。
「よそから来て、さんざん世話になっておきながら
何をえらそうに揉め事を持ち込むのだ」
正邪に関係なく、人の心は必ずこうなり
我々はトラブルメーカーの扱いになったはずだ。
継子創業47年、嫁の営業38年
私はこの心理を思い知っている。
義父の会社を本社に救ってもらった恩義がある我々には
やはり神風を待つ以外、方法は無かったと思っている。
変なのばっかり雇って、どうなっとるんじゃ‥
人はそう思うかもしれない。
けれども会社組織というのは、こういうものである。
1割のまあまあと、3割のお人好し
あとの6割は勘違いの昼あんどんで構成されている。
この割合に変化が起きれば、急成長か倒産だ。
これから先がどうなるかわからない。
このままかもしれないし
ダイちゃんは早々に許されて元通りになるかもしれない。
やれやれ、やっとダイちゃん問題が片付いたと思っていたら
今度は還暦を過ぎた夫の肩叩きが始まるかもしれない。
が、どうなってもかまわない。
夫を宗教の人身御供に捧げなくて済んだのだから
贅沢は言わずにおこうと思う。
そんな私のさしあたっての興味は、藤村の結婚。
フィリピーナのテレサと無事ゴールインできるのか。
この物見高さは治りそうもない。
《完》