さて、モンちゃんは近所の人に勧められるまま
人権センターの門を叩いた。
確かに大声を出されるのは怖い…
仕事中に、自分が出るまで何十回となく携帯をかけられるのも怖い…
でも素直にセンターへ行ったのは怖かったからじゃなく
近所に迷惑をかけていると思い知らされたから…
モンちゃんはそう言うのだった。
私も夫の家で経験したが、抑圧される生活を続けていたら
とにかく我慢して、その日を終えることだけに必死になってしまい
何とかして環境を変えたいという考えや力が出なくなる。
捕虜みたいな心境だ。
それが何かのきっかけで、背中を押される。
こうなったら女は強い。
どんなことでもやってのけるパワーが出るものだ。
モンちゃんの場合、そのきっかけが隣人のアドバイスだったのだろう。
それにしても人権センターって
音楽や料理など市民サークルに建物の部屋を貸したり
差別を受けて人権を侵害された人の相談に乗る所だと思っていたけど
女性の人権と尊厳を保護する部署もあるなんて、初めて知った。
考えてみれば、慰謝料を取りたいなら弁護士だけど
取る慰謝料が無い相手ならば
無料で相談に乗ってくれる人権センターで事足りる。
とはいえ、センターはアドバイスをするだけで
実際に行動するのは、ほとんどモンちゃんだったという。
彼女のケースは、小さい子供がいないのと
さしあたって暴力を受けているわけではない…
つまり緊急性が無いと判断されたからである。
センターの相談員からは、まず転勤と転居によって
配偶者から離れることをアドバイスされた。
勤務先へは、転勤に協力するようセンターから口添えがあったそうだ。
センターは可能な限り遠くへの移動を求めたが
若者ならいざ知らず、65才の高齢嘱託職員を
右から左へおいそれと動かせるものではない。
モンちゃんの転勤先は、隣市にある畑違いの部署に落ち着いた。
今までのようにお金を扱う所ではないため、休日の方は不定期だが
新しい職場は心身に無理が無く、あまり人目につかない仕事。
私はそこに、勤務先の誠意を感じた。
モンちゃんが、地道に何十年も働いてきたからだと思う。
転勤先が決まると、次は転居。
キンテン君が捜索願いを出しても、警察は受理しない手続きを取る。
住民票も移したが、これもキンテン君には見せない手続きを取る。
警察や市役所にも、センターの口添えがあったそうだ。
そこからは、モンちゃんの自力。
転勤先の町でアパートを借りたり、引っ越しの準備だ。
並行して、通院中の病院の転院手続き。
今までかかっていた町内の病院だと
姿を見られたり待ち伏せされる恐れがあるので
持病の数だけ通院先のあるモンちゃんは
主治医に事情を話して紹介状を書いてもらい、病院を総替えした。
ちょっとだけヨ…という生半可な気持ちで元の町に近づいたら
何が起きるかわからないので、徹底したものである。
他に、センターのアドバイスで
キンテン君の名義で貯金していた通帳を置いて出た。
急に文無しになると、危険な行動に出る恐れがあるためだ。
小売店や飲食店では泥棒対策として
夜間はレジに5千円程度の現金を入れておくという。
レジに少しでもお金があれば、泥棒はそれを盗んで帰るが
盗むお金が無い場合、腹いせに店を破壊することが多く
その被害は5千円では済まない。
それと同じ対策だと思われる。
通帳に入っているお金はわずかな額だとモンちゃんは言うが
それがあるうちは、キンテン君はおとなしいはず。
私は『牛方とやまんば』の昔話を思い出した。
やまんばに食べられそうになった牛方が
牛の背に積んだ塩サバを次々に投げ
やまんばがそれを拾って食べている隙に
できるだけ遠くへ逃げ切ろうとする話である。
そして、いよいよ家出。
センターからは、置き手紙をするかどうか聞かれたそうだ。
金ヅル…いや妻が夜になっても帰らないとなると
キンテン君がパニックになって
また大声を出すかもしれないと案じたモンちゃんは
置き手紙を書くことを選んだ。
センターからは、「では短く」とアドバイスがあったという。
「家を出ます、お元気で」の簡潔な置き手紙は
こうして作成されたのだった。
ともあれ、このように深刻な話を聞いたマミちゃんと私は
モンちゃんが家を出たことも、その行き先も
絶対に誰にも言わないと決めた。
同級生のテルちゃんにもだ。
なんならモンちゃんの安全が確保されるまで
もう他の人たちと会わなくてもかまわない。
その後は店を変えて、続きを話し合った。
モンちゃんは、一番の難関と思われる離婚手続きを
センターがやってくれると思っていたが、それも自力だそう。
無料相談なので、そこまで親切ではないらしい。
今はまだキンテン君に近づいたら危ないので、そのままになっている。
ここで、マミちゃんから珠玉のアドバイスが。
「◯ぬのを待ちんさい。
買った惣菜とお酒ばっかりで、すぐ身体を壊すよ」
マミちゃんは真面目に言っているのだが
彼女の優しい口調と内容がかけ離れているのが面白くて
モンちゃんと私は大笑い。
我々は再会を約束し、モンちゃんの住む町を後にした。
《完》
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます