殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

現場はいま…トリオ・2

2023年10月22日 09時01分41秒 | シリーズ・現場はいま…
重機を制する者は、現場を制す。

得意の重機をとっかかりに、采配を振るう予定でいたピカチュー。

しかし早晩、彼の実力では無理と判明した。


夢破れた彼が次に何をしたかというと

うちで使っているm3(立方メートル)という単位を

彼が長年、慣れ親しんだt(トン)単位に変えてくれと言い出す。

生コン出身者は、この単位の違いに強い違和感を感じるらしい。

同じ生コン出身の松木氏も、着任してからしばらくは同じことを言っていた。


なぜって、学校でも職場でも

チンプンカンプンで何もわからないのは辛いものよ。

仕事を覚える以前に、最初の一歩である単位でつまづいたら最後

年配者の硬い脳には何も入らなくなり、別世界に迷い込んだような孤独の淵で

新人の位置に甘んじ続けるしかない。


年を取ると、わからない状態を続けるのが恥ずかしくなる。

わからないうちは、他の皆より下っ端だからだ。

お飾りの肩書きを与えられ、意気揚々と着任したはずの年配者にとって

これは実に苦しい状況と思われる。

一日も早く慣れて、営業所長という肩書き通りに振る舞いたい…

そんな焦りに苦しむようになるのは、松木氏をつぶさに見てわかっていた。


前任の藤村や松木氏より、善良なだけマシなピカチューも62才。

したたかなオジさんであることに変わりはない。

オジさんはやがて、この苦しみから脱出するスベを発見するのだ。

「何もわからないのは自分が劣っているからではなく

単位が違うからではないのか。

慣れている単位に変えさえすれば、自分にもわかるのではないか」

何ヶ月か経つとそう錯覚し始め、単位の変更を主張するようになる。


が、言われるままに単位の変更を認めてしまったら

従来のm3にいちいち掛け算をして、tに換算しなければならない。

単位を変える行為は、現在の日本で使われているメートル法を

インチや寸に変えるのと同じことだ。

我々の業界にとって単位の変換は、法律を変えるほどの暴挙であり

本社を含めた内部にも、取引先にも混乱を引き起こすのは明白。


しかし彼にはその意味すらわからず

「トンに変えれば自分にもわかるのに」

と再三訴えては変更をねだる。

単位を変えても、わからないものは永遠にわからないことを夫は知っていた。

こんなバカバカしいことを思いつき、臆面も無く口に出すような者は

そもそもこの仕事に向いてない。

それすらわからないのも、入社した頃の松木氏と全く同じである。


夫がなかなか首を縦に振らないことに焦れたピカチューは、この時点で言い出す。

「僕は本社直轄の営業所長なのに…」

つまり子会社の者は、本社直轄の言うことを聞けと言いたいのだ。

この発言も松木氏と全く同じだった。


単位の変更に続いて本社直轄を振りかざすピカチューは

夫の中で松木氏と重なった。

せっかくいなくなったのに、また同じことの繰り返しか…

絶望した夫は厳しく言った。

「この業界には、足を踏み入れたらいけん領域がある。

それ越えたら、わしゃ噛みつくど!」

年上の松木氏には、言いたくても言えなかった言葉だ。

「これでようやく、単位のことを言わなくなった」

夫は私に報告した。


松木氏の方が一つ年上ということで、夫は我慢に我慢を重ねてきた。

その結果、どこまでも増長させてしまった反省を踏まえ

「年下のピカチューには強気で行きんさい」

彼の着任が決まった時点で、私は夫に言い聞かせたものである。

しかし今回の夫の発言は、抽象的過ぎると感じた。


右も左もわからないうちから単位の変更を言い出して

アウェーを自分のホームグラウンドにしたがるような者は、元々勘が鈍い。

ことに商売の勘が鈍いから、そんなことを言い出せるのだ。

鈍い奴に、領域の境界線なんか見えるわけがない。

よって、これでは終わらないだろうと思った次第である。


夫の剣幕に驚き、単位の変更を諦めたピカチュー。

最近は配車に興味を持ち始めた。

初心者にはこの配車が、暇つぶしに持って来いの良さげな仕事に見えるらしい。

ある日の夕方、近くの取引先を訪問し、在庫を確認して長男に直接連絡。

「かなり減ってるから、明日は多めに行って。

1台につき6往復ぐらいのつもりでね」


いきなり言われた長男は、腹を立てた。

突然、配車の仕事を奪って見当違いの指示を出し

仕事をしたつもりになっている厚かましさが

長男の天敵、藤村を彷彿とさせたからだ。


取引先の在庫が減っているのは、子供でも見たらわかる。

近い取引先へ一軒だけ行って在庫を確認したところで

他の取引先との兼ね合い、こちらの在庫や入荷の予定

運転手のスケジュール、さらに天候を無視して配車はできない。 

ダンプを遊ばせないように、さりとてオーバーワークにならないように

うまくコントロールするのも配車の大事な仕事である。


藤村もそうだったが、ピカチューも

取引先の在庫が切れて操業がストップするのを恐れる。

が、それこそ初心者特有の無駄な恐怖。

全車が一軒の取引先に集中したら、出入り口や納品ポイントで渋滞が起きる。

順番待ちのためにかえって時間がかかり、スムーズな納品が難しくなるのだ。

取引先が在庫切れを起こさないよう、さりとて過剰納品にならないよう

そしてこちらはダンプが無駄な燃料を炊かず、残業にもならないよう

つまるところは利益を出すために各方面をやりくりするのも配車のうちである。


一見、誰でもできそうな配車だが、実はこのように奥が深い。

勝手なしろうと考えで台数と往復回数を決めて

失敗、つまり損益が出たら誰が責任を取るのだ。

先の先まで見越す勘と経験が無いから、いきなり配車をしたくなるのであり

そんな人間は絶対に責任を取らない。

しろうとがいきなり配車を奪うのは

夫を始め運転手たちに対する冒涜に他ならない。

我々の業界で配車に口を出すとは、そういうことである。


長男から話を聞いた夫も怒った。

単位の変更が未遂に終わった松木氏も、一時は同じことをやったし

あの藤村なぞ、そのまま配車の仕事を奪ってしまい、損益を出し続けた。

さらにはピカチューまで同じ道を歩もうとしているのだから

腹が立たないはずが無い。


しかし感情的なものばかりでなく、物理的な問題もあった。

翌日の予定は決まっているのに、夕方になって変えるわけにはいかない。

重機を扱う夫は、取引先にいちいち行って目視しなくても

ダンプに積み込んだ商品の数量で向こうの在庫状況を把握している。

退屈しのぎに取引先までドライブした人に

納品の台数と数量を勝手に決められても困るというものだ。


よって、配車も足を踏み入れてはならない領域だと

ピカチューに説明した。

配車をやって喜ばれると思っていた善良な彼は、かなり当惑していたそうだ。

こちらへ来て8ヶ月、彼は今この地点にいる。

《続く》
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする