公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読んでる『錨を上げよ』一出港篇ー 百田尚樹

2019-10-02 03:58:00 | 今読んでる本

自伝的形式を用いた昭和の復興後の日本人のエピソードのどこから読んでも私と同時代。中学生の選別の無関心無神経が蘇る。今も全員進学とは言ってもランキングが前提だ。私物のように人生を左右する進学を差配していた教師は権力者としては有効性係数が格段に高い。《林田さんはにっこりと微笑んで私の肩を叩いた》十三、東三国、しかしこの土地勘はやたらと黒川博行と重なる。西村芙美の進学校は天王寺、空堀町あたりの設定か。どおくまんプロの漫画 花田秀治郎くんの喜多淀剣道部のサブキャラ剣くんに取材したような中学生時代の描写など気になり出すと切りがないが処女作には何もかもが詰まっている。最新作夏の騎士の原形もある。



世間と個人の折り合いは、キョロキョロして決めるのがほとんどの普通の人の行動基準だろう。なにせミクロな世間は一つとは限らないのだから、自分の所属世間がどこなのかというところから人生が始まる。夏目漱石が描いた正義漢の坊っちゃんにとっては赤シャツや野太鼓は俗物の極み、でもそれは小説の中の世界のこと、現実は自己保身を正当化する俗物だらけの状態(情実と建前、応酬とゴマスリ)を肯定しなければ世間は成り立たない。むしろ赤シャツや野太鼓が多数派なのです。坊っちゃんも世間を選択して丸くなることを強いられる。この強そうなものに巻かれる原始的な精神があれば日本で十分暮らしてゆける。その長いものを身をもって知らされ、所属階層を人生で初めて強制されるのが学校である。野放しの野生馬が馬銜(はみ)を装着されるときのように自然児ではいられない。



私も作田と同じように資産や権力特権の後ろだてのない、親の期待もなければレールもない人生であった。中には15の時から職業と人生の終わりまでの居場所を決めている同級生もあれば、大学以降の栄達の街道を士業や官吏としてまっすぐに進んでゆく同級生もいた。しかしそういう世間を目に入れつつも自分は何か夢を見るように社会の階層や世間という空気空間から自由であると思っていた。自分の人生の舵取りは自分だけと考えた。両親や大人の不可解な行動を見て作田同様に、たやすく人を信じて正義や理想に人間はたやすく命をかけられない。人間の本質は性悪、故に性悪を前提に理想に燃えて近所の兄ちゃんみたいに左翼に出家することなど矛盾だと思っていた。作田も出会っている懐かしの『おおかみヘアー』の下級生にはモテたが、自分にはある理想の人がいたので見向きもしなかった。とにかくどうでもいい世間の産地、故郷釧路には帰るつもりはなく、理想の人も含め中学同級生とは極力会わないようにしていた。



この生意気な中学生は作田のように腕力で暴れてはいなかったが、むしろ教師に説得され生徒会長などよゐこしていたのだが、反抗はせず原則と筋を通す、教師から見れば扱いにくい生徒会長だっただろう。このとき世間は口汚くなんで貧乏人の息子が生徒会長などやると聞こえるように声をあげていた。進路を決める時に担任の渋谷薫が俺ん家の貧乏を逆手にとって特待生の待遇でスポーツだけの高校、希望学園系を受験する話を持ってきたが、即時拒否した。私にとって教師とは野生人間の敵・世間の先兵だった。万博も札幌オリンピックもあさま山荘事件(この時は大雪で休校になった)もリアルに同じ時代の空気を吸って作田とともにTV📺の前に座っていた。そして10年後本当に友人が@@れる。作田のように素直な人ほど傷ついていた。真実の行為は変形し、クズ紙がケチなトイレ紙に換えられるように、やるせない暴力だけが理想社会実現運動と交換されていた。そんな70年代だった。




《2004年、NHK・BS2の書評番組「週刊ブックレビュー」で、メイン司会の俳優、児玉清さんと共演することになった。児玉さんも30代で東宝を出て、フリーになりテレビなどに活動の幅を広げた。マネジャーをつけず、よく一人で行動していた。仕事場に一人で来て、一人で帰っていく。その姿を見て、他人に頼らず一人で立っていたいと思ってきた自分も「これでいいんだ」と自信をもてた。
 年の差はちょうど40歳。》

良い髪ツヤしている。日本人は染めない方がいい。


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