公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

ハンサム

2013-04-22 22:26:54 | 今読んでる本
小説家浅田次郎の言うハンサムは、縮めていうと、中身が外見に合っている割合が男や女の価値を決めるということらしい。
つまり誰でもおのれを知らなければ、どの外観を選んでいいのかわからない。だが不幸なことに若者は外観を先に選んでしまう。どう抗おうと、本人の意志とはかかわりなく年齢はその相貌、容姿を変化させる。だから折り合いをつけるということがハンサムの要諦なのだ。
しかし案外に若き日の外観に執着している浅田次郎はよく自分の20代はリーゼントで決めて、よく見ればジェームス・ディーンのようだったと書いている。

本人が描く容貌の比喩が客観的に適切かどうかはさておき、そういうおのれの姿に中身を合わせようとしている若い時期は男女共に苦しく、年をとると男は楽になってくる。さように外観というものは罪なものである。

わたしの持論は女の自然完成形はババアであり、男の完成形は二十歳(はたち)の自分である。女の中身はどんどん変化する、娘、オンナ、妻、母、そして自由なババア。故に男はどんな美人に出会ってもババアの候補生であることを忘れてはいけない。女は二十歳の実物を選び、決して伴侶であろうと男の二十歳のセルフイメージを護ってはくれないのだから。

男の中身は二十歳で止まってしまう。もちろん何らかの修練、熟練はあるだろうが、セルフイメージはそこでおしまいだ。そうしながらも髪の毛は後退し、目は垂れ下がり、腹が出る。男の外観はどんどんセルフイメージからずれてゆく。50も過ぎると本当の自分と考えているイメージさえも何がなんだかわからなくなる。男ももちろん中味が成熟するが、もはやその時には外観を選ぶことができない。

男には女の人生のように変態の節目節目にセルフイメージの修正が入らない。子供といえば子供だが、男は度し難い無成長時期を50年も過ごして後に死を迎える。本来三十路すぎの男は人間社会に必要のない動物かもしれない。一方でオンナはどんなに美しく生まれようとも、娘時代は所詮ババアになるための幼虫期にすぎない。もちろん極論を言っているのだ。つまり男がハンサムになれる時期は極めて短期間であり、女がハンサムになるのはババアと呼ばれるようになってからという私の極論ナノだ。

続く
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