公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

精神現象学 完訳 ヘーゲル 樫山欽四郎訳

2019-04-25 09:07:00 | 意見スクラップ集

発行日 2 0 1 8年 1 0月 5日 V e r . 1 . 0 0著者 G ・ W ・ F ・ヘ ーゲル訳者 樫山欽四郎(樫山文枝の父) 発行者 下中美都 発行所株式会社平凡 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 - 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。写真はシェリングです。


《いままでのべたことを例によって説明してみよう 。 「神は存在である 」という命題においては 、述語は 「存在 」である 。つまり述語は実体的意味をもっており 、この意味のなかで主語は溶けてしまう 。この場合には 「存在 」は述語であるのではなく 、実在 〔本質 〕であるはずである 。そのため神は 、命題における位置によって在るところのもの 、すなわち固定した主語であることを止めるように思われる。》


《また同じように 「現実的なものは一般的なものである 」と言う場合 、主語としての現実的なものは 、それの述語のなかで消えてしまう 。一般的なものという語はただ述語という意味をもっているだけでなく 、したがって 、この命題は 、 「現実的なものは一般的である 」 〔前の命題に対し述語が形容詞になっていることに注意 〕ということを言っているのではなく 、一般的なものという語は 、現実的なものの本質 〔実在 〕を言い表わしているはずである 。──それゆえ 、思惟は 、主語においてもっていた 、確乎とした対象的地盤を失うだけでなく 、述語において主語に投げかえされる 。そして思惟は述語において自己にではなく 、内容という主語 〔基体 〕に帰るのである 。》



述語の中で神は溶けている。これがヘーゲルの過激な(とは言ってもスピノザ主義を明言したシェリングほどではない)思弁であり、後々の大論理の原動力である。


この命題の問いは神とはなんであるかであろう。しかし問う前から答えは措かれている。わたしがヘーゲルの師であれば、溶かした神を存在と見た後に問いが生まれた前後関係を徹底してみなさいと言うだろう。もしヘーゲルの友人であればシェリングのように命題上の《ある》を説明せずに《ある》の構造を問うだろう。シェリング有機体を自然の最高の形態とみなし、それをモデルとして、力学等を含めた自然の全現象を動的な過程として把握する図式を提起しようとした。ここでシェリングの有機体理解に大きく寄与したと思われるのはライプニッツで、『イデーン』には『単子論』への言及が多くなされているという(以上はWikipedia)。生命の哲学を理解して欲しいならばライプニッツの未完哲学である『単子論』は避けて通ることはできない。彼の関心は生命と論理の起源だった。

私の自論個人的信条、思考の普遍性とその個別構造を測定することの統合が哲学であるという意味で、つまり《概念的に把握する》「精神現象学」までのヘーゲルのメモは哲学者であるが、その先のヘーゲルとその弟子のまとめは思考を疑わなかった神秘主義の学者にすぎない。この神秘主義に西欧の伝統的言語体系と不可分の価値観である《必然の認識を正義=権利と定義する 》動機を結合して人間の歴史的発展を正義原理主義的に解釈したのがマルクス主義である。マルクスもまたシェリングに学ぶ学生だった。『収奪者が収奪される』という有名な歴史予言的結論はこの必然の認識を正義とする論理の飛躍が論理破たんとなって表出している。

 この必然認識=正義=権利の源泉という原理主義の公式は現在の西欧経済文化や政治行動に内包するロジックであり、古くはマルサスの人口論。かつては米ソ軍拡競争による世界の核戦争破滅(これを防止するための世界政府の必然、ジェームズ・ウォーバーグの演説)という必然性認識が正義の原理として支配的だった。この人物が日米戦争の黒幕であることは歴史的事実https://en.wikisource.org/wiki/James_Warburg_before_the_Subcommittee_on_Revision_of_the_United_Nations_Charter#We_shall_have_world_government

 

February 17, 1950

”I am James P. Warburg, of Greenwich, Conn., and am appearing as an individual.

I am aware, Mr. Chairman, of the exigencies of your crowded schedule and of the need to be brief, so as not to transgress upon your courtesy in granting me a hearing.

The past 15 years of my life have been devoted almost exclusively to studying the problem of world peace and, especially, the relation of the United States to these problems. These studies led me, 10 years ago, to the conclusion that the great question of our time is not whether or not one world can be achieved, but whether or not one world can be achieved by peaceful means.

 

We shall have world government, whether or not we like it. The question is only whether world government will be achieved by consent or by conquest.

 

Today we are faced with a divided world—its two halves glowering at each other across the iron curtain. The world's two superpowers—Russia and the United States—are entangled in the vicious circle of an arms race, which more and more preempts energies and resources sorely needed to lay the foundations of enduring peace. We are now on the road to eventual war—a war in which the conqueror will emerge well nigh indistinguishable from the vanquished.

 

The United States does not want this war, and most authorities agree that Russia does not want it. Indeed, why should Russia prefer the unpredictable hazards of war to a continuation of here present profitable fishing in the troubled waters of an uneasy armistice? Yet both the United States and Russia are drifting—and, with them, the entire world—toward the abyss of atomic conflict.”どの口が言うと言いたい。

米ソ潜水艦の時代は反捕鯨(反ソナー)が正義だったが、今はソ連が崩壊して、気候温暖化の必然認識が正義であり、この認識に基づく行動は世界政府の権利であるという運動の煽りに引き継がれている。例えば、"If we don't commit to fully transforming our energy system away from fossil fuels, we will doom future generations,” Sanders continued. “Fighting climate change must be our priority, whether fossil fuel billionaires like it or not."という具合に。実のところ1988年の温暖化予想(学問ではあるがレビューなくJ Hansenは金星の気候研究者であった。米国上院演説)は外れ世界全体の気温は15年ほど前から、大都市を除きほぼ変わっていない。こういう事実はどうで良いというのが正義原理主義である。社会のICT化も同じで必然認識が正義であり、情報窃盗犯罪者も逮捕されない。必然認識=正義=権利の源泉という原理主義の公式第四次十字軍(ベネチアで旅費がなくなったからキリスト教徒から強奪することにした)以来の西欧の病理であり人類の病であるがゆえに、人口問題などはイーロン・マスクとビル・ゲイツが対立するまったく新鮮なイデオロギー問題でもある。


 

学生の頃初めてこの本、当時手にした本は今も手元にあり、河出書房世界の大思想シリーズ 12、「ヘーゲル 精神現象学」樫山欽四郎訳だ(前の持ち主「丸子裕」と署名がある。同姓同名かもしれないが道立図書館の丸子氏?)序論には多くの箇所に40年前の私の書き込みがある、この本を手にしたとき、ヘーゲルのいう自己とその運動という一般化が、理解できなかった。この時の私の目的は不遜にも概念的に把握するという意味と限界を追いかけることだった。しかし書き込みメモを見ると40年前、序論で、見事に跳ね返されている。 

ちょうど勉強していた時、最も人生に悩んでいた時期のネガフィルムがあったのでデジタルポジにしてみた。


概念についてヘーゲルは「概念は、向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念は、また体系的な全体であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。従って概念は、自己同一のうちにありながら、即時かつ対自的に規定されているものである。」と小論理学で述べている。デカルトは「あらゆるものの観念あるいは概念のうちには存在が含まれる。なぜなら我々は存在するものの相のもとにおいてでなければ何物も把捉し得ないのであるから。」と述べている。


概念的把握するところの思惟の場合は、《概念が対象自身の自己であり、自己が対象の生成として現れる》。この部分、神は存在(述語)であり同時に存在は神自身の生成である。よく見ればこのヘーゲルの主張は完全な汎神論である。それ故に多くの本で概念的に把握すると訳されていたBegreifenをしっかりと理解することが当時の自分に必要だった。(補:生成というのは数学的には写像であり、自己が対象の生成として現れるというのは、数学的には演算により体をなすという集合論に相当する)


1792年のシェリングの発明、逆転法にならい、試みに対象と自己を入れ替えて《対象が自己の生成として現れる》としてみれば対象はお化け化し、唯物論になる。補:加減乗除の演算定義によって体が生じるのではなく、いわば、逆写像が体を定義するかのように論理倒錯している。

これがヘーゲル左派であったマルクスの天才的発見=天才的詭弁である。この詭弁もシェリングに学んだものだ。マルクスによれば分析された自分に乗り移る状態が正当化される。出典は 《悪とは諸原理の積極的な転倒もしくは逆転に基づくもの》というシェリングの悪の研究『悪の起源について』(1792年) が根拠だ。


ヘーゲルの学の内容たる自己を歴史的社会の社会的段階発展ととらえれば唯物史観、史的弁証法になる。このようにしてマルクス主義が生まれる秘密の鍵を手にした喜びはやっとマルクス主義を根底哲学から批判できる地盤を得た喜びの瞬間でもあった。 私はショーペンハウエルのリアル認識の根拠に出口を見つけた。認知と判断に随伴する強い感情こそがその意志ベクトルの源泉であり。感情と強く結びついた判断回帰を概念に逃避させていては本当の世界認識は始まらない。ショーペンハウエルの方がリアル認識の客観的定義、リアルの解剖に徹している。 またヘーゲルに戻ると、そのような意味で当時の神学に挑戦したヘーゲルは過激思想家であり、故に神は述語の中に溶かされている。しかも過激に神という言明よりも大きく、これを含む述語が主語に跳ね返される論理がある、と学の端緒で断言したのだ。

しかしこの主題「概念は、自己同一のうちにありながら、即時かつ対自的に規定されているものである。」は何度も出てくるのでヘーゲルのリズムがつかめ始めたとき、一挙に観念論世界が開けてくるそういう強い思弁の立体感覚に襲われた。思えばヘーゲルは哲学のキュービズムだった。静止した美しさはないが現実的なものの薄皮を動的に割く論理のナイフだった。 当時の勉強は指導者もなくただ経を読む僧侶に近い読書であった。思惟が運動であると悟性作用に対置するときのヘーゲルは筆が走りに走っている。小論理学 大論理学と次第にヘーゲルのその後の著作にはこのような真理に向かって突進する野性味は残されていない。精神現象学のヘーゲルは新鮮なまま登場した。樫山先生に感謝である。

ヘーゲルはシュトゥルム・ウント・ドラング時代(だいたい18世紀の60年代から90年代:一八世紀後半のドイツで,若きゲーテやシラーを中心に興った革新的な文学運動。理性中心の啓蒙主義や静的な古典主義に反対し,天才の感性・個性を重んじた。「疾風怒濤(しつぷうどとう)」と訳す。)後の世代だったから、感情超越論には否定的だったが、だからといって悟性的論証には満足していなかった。友人フリードリヒ・シェリング《観念論哲学の手法により、悪は神により形成された完全な世界において、人間のみがなしうる行為であり、過去や現在・未来を貫く自由な決断のなかで「被造物のなかで最高度の完全性」と呼ぶべきものに由来すると解説した。》◉その時代を知らなければ時代精神を弁証法的運動として捉える思弁形式だけを勉強しても理解はできない。◉《真の思想と学的洞察は、概念の労苦においてのみ得られるべきものである。》とまで述べるヘーゲルにとって概念的に把握するとは時代と重ねた学問的自己像の思弁哲学的確認、一般化への唯一の道なのだということが段々とわかってくる。完訳版はそのあたりが十分補われているから読みやすい。ヘーゲルは現代で言えばヒッピーやフラワーチルドレンの感性世代の後の世代、つまり思想的大運動に対して遅れてきた世代に当たる。奇妙なことだが、ドイツ観念論(論争)の起源となる、最初の書簡交流は作者不明である。ヘーゲルはそれを書き写した立場とだけある。

歴史的にシェリングなしにはヘーゲルも無かった。

やはりシェリングの洞察の通り、悪は神の創らなかったものの中で最も神に近いものだろう。なんとなれば、神はしばしば慈悲を忘れる。最初の作者不明草稿に始まるドイツ観念論は最終的にマルクスに渡され学問の衣を着た,

最も神に近い殺戮者が20世紀を支配した。


つまりこの書簡こそが、悪の始まりだった。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegel1770年8月27日1831年11月14日)は、ドイツ哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテフリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。

人生の半分は気が変になって過ごした詩人ヘルダーリンや哲学者シェリングと交友を結ぶ。三人とも規則に縛られた神学校の環境を好まない点で意気投合し、互いの思想に影響しあった。ヘルダーリンはヘーゲルと同様ギリシア古典に精通し、古代ギリシアを彩る市民的自由の気風に強烈な憧れの情を抱いていた。また、シェリングは5歳年下でありながらヘーゲルの二期下で主席入学を果した早熟の天才であった。シェリングはヘブライ語が堪能で、世界を総合的に捉えてその中心点を明らかにする優れた頭脳の持ち主であった。ヘーゲルは彼らとギリシャ語ラテン語博物学などを学び、天文学物理学などを好み、古代ギリシアの詩の世界を愛するヘルダーリンと大胆な直感で世界を語る天才シェリングとともにその知見を広げた。


この後どのように哲学にはまっていったかというと、前に書いた物理学の勉強を経て前にも述べたモナド論の拡張に至る。つまりライプニッツの現代的な再生である。物理学の方便に『エルゴード的(ある物理量に対して、長時間平均とある不変測度による位相平均が等しい)である』という論理の飛躍がある。こういう飛躍がなぜ可能かというと、世界はモナドという関数を媒介とした諸世界の結合の集合を根拠とするからだ。われわれの世界は善も悪もなく、そのような世界から次元を三つばかり取り去ったいわば印刷されたインクのシミのようなものである。もし悪があるとしたら、頭脳を使うことなくインクの染みを呪うことであろう。 存在はモナドの陰であり、われわれは単数であり複数である。物質世界が無限に探求可能であるという根拠は、物質世界の実像は観測以外の部分に隠れているモナド性であろうという推測を最近の哲学のベースとしている。存在論は否定しているが、汎神論的であるところは相変わらずヘーゲリアンである。


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