公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

早速探知された 

2017-07-03 13:04:00 | 日本人
よろこべ 北海道大学学生・恵迪寮中途退寮者の井上大輔君 先輩が君の主張を探知してくれたぞ。

アップデートされてる「学力が低く、向上心もなく、勉強もせず約束を守らず、我が強く粗暴で、金に汚く、頭が悪く時事や周囲の人間に浅薄な批評を垂れ流してしまい北大に馴染めない人でも、恵迪寮にいれば人間関係は保有できる。虚しい人間関係だが、ないよりはましだ。嫌われる人は一か八かで恵迪寮に賭けてみる価値はある。」

恵迪寮への恨み

我ら先輩は馬鹿だから寮にいた。そのとおり。利口は早く出てゆく。ドッペリは偉そうにしていた。そのとおりです。
伝統は胡散臭い そのとおり。
紳士の良き伝統は悪しき上べの伝統に駆逐された。


しかし振り返れば、風化にはその原因となる歴史的事実もある。恵迪寮の「迪」の字は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧(允(まことに)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ)」「恵迪吉従逆凶(迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)」にとった。そいう額が掲げられていたのを毎日食堂で見ていた。

裕仁の幼名迪宮であるということは寮に伝えられた命名説明の伝統からは削られている。

これを伝統の何と見るかは歴史を考えてみたまえ。

1905年に寄宿舎が新築された時に恵迪寮と名付けられたのだから、昭和天皇の誕生1901年にちなんで命名したことは明白なのだ。しかし誰もこれを語らない。

昭和天皇に妾を持つべきと上申した明治の秘密を知る人で墓場まで持っていった田中光顕

こうして伝統は幻想化によって作られたということを知ることが伝統の洗礼を受ける意義なのだから、どうか社会人になって疑問を持たない部品的社員にならないことを願います。


[ 高知県高岡郡佐川町 ]


ここは、浜田辰弥(田中光顕)邸跡地を公園にしちゅう場所ながです。

浜田辰弥(田中光顕)邸跡の周囲は、一緒に脱藩した山中安敬と大橋慎績の屋敷跡もあったき、一緒に公園化され別名・勤王屋敷跡とも呼ばれちょります。

碑の書は、明治の元帥陸軍大将と呼称された長州出身の山縣有朋ですき。

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