ラインホルト ニーバー
- 「正義を取り扱うことのできる人間の能力が民主主義を可能にする。しかし、不正義に陥りがちな人間の傾向が民主主義を必要とする。」
1945年以降、ニーバーのリアリズムは深化したとされ、結果としてソビエト連邦と対峙するアメリカの支援に彼を導いたとされる。
前段①正義を取り扱うことのできる人間の能力が民主主義を可能にする。
後段②不正義に陥りがちな人間の傾向が民主主義を必要とする。
①は真だろう。
②は偽である。なぜならば、民主主義が不正義を作り出すからだ。それでも光の子らによる正義を行える人間(性善説)の供給は絶えないだろう。闇の子はその供給者である教育と道徳と宗教、人間精神の一般性、イデオロギーを同時に冷笑する。
a正義要請としての可能的民主主義と
b制度としての必要的民主主義
は重なることは珍しい。
正義要請は独裁の母であり、制度は独裁の子である。子が先祖返りして親を討つ場合のみ、aとbは重なる。日本で言えば憲法改正または自主憲法の回復が構造的にa bの重なりつまり二項演算に相当する。
性悪説に立てば、その冷笑者は常に安全なところにいて心地よいことだろう。しかし光の子を見る時、闇の子はとても居心地が悪くなる。ずっと若いときそんな体験をしたことがある。まだ私の言語が光を発していた時の小さな破壊のことである。
この本を読むとき、若いときの疑問は、闇の子でありながら光の子でいられるかという矛盾提起に尽きる。
さて序でに付言するのはこのくらいにして、内容に入るが、この正義要請と制度建設という二項演算が自由主義にも共産主義にも共通して作用していると主張することがニーバーの問題提起であり解である。
ニーバーは、人間の精神の可能性について、やがて調和的欲求の基礎に立つことを前提にして、一方で欲望に応じて働き必要に応じて消費する理想社会への進歩背景にあり他方で自由主義を基礎とする人間精神の無限の可能性を信頼根拠として演算可能であることを立論している。
闇の子も光の子も同じ過ちを犯すだろうという予想はニーバーの論説の通りだろうと思う。しかし私にはニーバーの言葉が世界精神の法哲学性を信頼するヘーゲル法哲学を批判したマルクスをも解剖台にあげたヘーゲル法哲学批判序説の第二幕に見えた。限界がそこに見える。
体系議論の不十分さを容易にするためにここで実存という制約条件を入れて、光の子も闇の子も出家と考えてみる。そうすることで人間精神の一般性という議論から抜け出せる。これが今から43年前の友人との議論だった。aとbとは独立し関係しない。関係したり重なったりしていると考えるのは幻想であるとする私のような闇の子に対し光の子は素直に実在すると信じていた。