40年前の今日まで、三島由紀夫は一つも読んだ事がなかった。
今となっては私には、三島が復活を求めた「英雄的な死の無い時代」に対照的に、滑稽な孤立を承知で文化モニュメントを自らの肉体の死を以て、生け花のように芸術作品化したようにしか思えない。いまだに切腹の意味と理屈は誰にもわからないだろう。
「英雄的」であったかどうかはわからないが、江戸時代には多くの人々が死に急いだ。例え三島がそういう時代の人間存在形式に憧れていたとしても、自分自身で実現することは何の魁けになったのだろう。
ただ、45歳で死んだ彼はそこで凍結されたままである。老いる事が無かった事が三島由紀夫を輝かせている。
盾の会がなんであったのか、残った者たちの声を聞いてみたい。
今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは 森田必勝
予断を排して、三島由紀夫個人にとっては必然的にこうなったはずと解釈してみると、死を完成させる為には煌びやかな三島の言語はもはや力を持ち得なかった。肉体を捧げるために言語を超えなければならなかったのではないか。彼の語らざる部分の必然性はそう思うことで、後追いで埋めるしか無い。
破を通じて、自由なる離に至る。芸術としてはわからなくもない。
追補2017.8.21
それから5年後の記事
産経ニュース
2015.11.22 06:00
【三島由紀夫没後45年(上)】決起した元会員、貫く沈黙 肩の刀傷…今も悔いなく
自衛隊員の野次に遮られて演説を中断した三島由紀夫は、森田必勝(向かって右)と天皇陛下万歳を叫美、その後、自決した(三島森田事務所提供)
日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)
無意識のうちに身体に染みついてしまったのだろうか。その男性は話題が事件に触れようとする度、何かを確認するように右肩に手をそえた。理由を問うと、一瞬、驚いた表情をしたが、何も答えず、すぐに笑顔に戻った。古賀(現荒地)浩靖(68)。三島と共に決起、自決した三島と森田必勝(まさかつ)=当時(25)=を介錯した。
■ ■
関係者から、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室で自衛隊員ともみあった際、三島の日本刀が右肩に当たり、5針を縫う傷を負ったと聞いていた。古賀にとって刀傷は身体に刻みこまれた三島の形見なのかもしれない-。ふと、そんな思いが頭をよぎった。
「思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。日本の文化、伝統、歴史を守るために、今度の行動に出た」
古賀は裁判で詳細を語っているが、事件後は公の場から姿を消し、一切、口を閉ざしてきた。この日も、「自衛隊には誇りと栄誉を与えないといけない」「憲法は変えないといけない」と語っただけで、沈黙を通した。
穏やかな表情を崩さないため真意を読み取るのは難しいが、裁判での証言内容を考え合わせると、今も決起したことに悔いは感じられない。むしろ、自衛隊の敷地内で非合法的な行為を犯したのだから、自衛隊員の手で射殺されることを覚悟していたのではないか、射殺されることで自衛隊を目覚めさせようと考えたのではないか、とさえ感じた。ただ今も、ケガを負った自衛隊員への呵責は強く感じているようだ。心の内を明かさないため、確認できないが、沈黙を貫いているのは、その呵責と、思いを示すには行動以外になかった以上、それを言葉で表現しようにも表現できないのではないか。そんな印象を持った。
■ ■
口を閉ざしているのは、小賀正義(67)と小川正洋(同)も同じだ。
小賀は「公判で話した以上のことは話せない」と呪文のように繰り返した。ただ、事件の6日前、学生長の森田が、新宿の工事現場で段ボールに入った書類を燃やしているのを見たという。当時、森田は自決し、小賀は生き残ることが決まっていた。目の前で人生の総決算をする森田の姿に、小賀は何を感じたのか。何も語らないが、想像するだけで心が痛んだ。
小川も詳細については、楯の会の関係者にさえ、口をつぐんでいるという。
三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。
元会員は「われわれは伝統や文化という精神世界よりも経済価値が優先される社会に憤りを感じ、道義の腐敗の根源は憲法にあると考えていた。刺し違えてでも現憲法を改正するんだと、行動を共にしてきた」と話す。
三島は事件直前の最後の打ち合わせの席でこう言っている。「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
■ ■
三島ら5人の決起に一番ショックを受けたのは楯の会の会員たちだった。決起は参画した会員以外には知らされていなかったからだ。
楯の会創設にかかわった伊藤好雄(69)は三島と森田必勝の自決を自宅のテレビニュースで知った。「びっくりした、の一言」だった。任意で警察の調べを受けたが、それ以降のことは何も覚えていないという。取り残されたという思いが強く、三島と森田に対し負い目を感じた。早稲田大卒業後も「自分に使命が下りてきたとき、迷わず行ける態勢を作っておこうと、就職せず、女性とも付き合わなかった」という。
伊藤は45年春、三島から呼び出されたことが今でも忘れられない。「信用できるのはだれだと思うか」。三島の問いに答えは出てこなかった。裁判でこの時期、構想を練る三島と森田が小賀正義と小川正洋に声を掛けていたこと、4番目の男が決まっていなかったことを知り、三島の問いが改めて重くのしかかった。
伊藤と親しい1期生の篠原裕(ゆたか)(68)は、月1回の定例会が行われる予定だった市ケ谷会館で異変を知った。「何も知らずに例会があると思っていた。不明を恥じるほかなかった。事件以降、楯の会の会員だったと胸を張って言えなくなった」
勝又武校(たけとし)(68)は自宅で事件を知る。「恥ずかしいから話したくない」としながらも「バルコニーでヤジられている先生の顔は今でも忘れない。悔しく、無念だったと思う。その無念さは私自身の無念だ。(一緒に)行きたかった」と語る。
死が脳裏をかすめた元会員もいる。倉持(現本多)清(68)は「二・二六事件を取り上げた『憂国』では、新婚を理由に決起から外された中尉が腹を切っている。私も結婚を控えていたから腹を切るべきだったのか、と考えた」と打ち明ける。
一方、口をつぐみ続ける小賀ら3人の心中も複雑だ。
元会員の田村司(65)が、会員の思いを監修した「火群(ほむら)のゆくへ」の中で、初代学生長の持丸博(故人)が「嵐の只(ただ)中にいた人はもちろん、同心円から少し離れた人も皆、十字架を背負っています。だから、なかなか話せないんです。みんなそれぞれ悩んで今まで生きてきた。毎日悩んでいるわけじゃないけど、なんかの拍子にずっしり重くのしかかってくる」と語っている。
■ ■
三島が学生と接触を持つようになったのは41年暮れからだ。文芸評論家の林房雄の紹介だった。
当時日本は、東京五輪開催などを受け、高度経済成長の真っただ中にあった。同時に、中国の文化大革命の影響で、左翼思想が蔓延し学園紛争が拡大、学生らはそれぞれの組織でこうした勢力に対抗していた。
倉持は「学生は必ずしも考え方が一枚岩ではなかったが、天皇を敬う心情と共産主義に対する嫌悪感は共通していた」と振り返る。
三島はその後、楯の会の前身となる「祖国防衛隊」の結成を計画。43年3月、20人の学生と陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地で体験入隊を行うが、この体験入隊を機に三島と学生との距離は急速に縮まる。
小賀は裁判で「三島先生と同じ釜の飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら(中略)心強かったし、先生の真心が感じられた。本当に信頼できる人だと思った」と証言している。
伊藤は「先生は『作家・三島由紀夫に興味のある者は楯の会に必要ない』といつも言っていた。身近な存在で、男女の恋愛ではないが、糸でつながったような気がして、先生というリーダーを得て目標が見えた」と話す。
楯の会は、何事にも率先垂範し、カリスマ性と吸引力を持つ三島を頂点に、強い信頼関係に支えられた強靱な組織に成長する。それだけに、最後まで会にとどまった会員が「自分はなぜ、選ばれなかったのか」という気持ちにさいなまれたのは当然のことだった。
■ ■
三島はこうした会員の思いを見越したかのように会員に課題を与えた。
遺書では「諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい」と述べ、小賀ら3人には「森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と命じている。
元会員の多くは「命令書は今も生きている」と口をそろえるが、勝又は「自分がだらしないだけの話だが、やることをやっていないので、先生と森田さんに申し訳ない」と言う。三島らの思いは今も、日本人の喉元に刃を突きつけている。 (敬称略)
◇
遺書、檄文、命令書の全文と証言集は、インターネット「産経ニュース」の特集「三島由紀夫事件」に掲載しています。
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今となっては私には、三島が復活を求めた「英雄的な死の無い時代」に対照的に、滑稽な孤立を承知で文化モニュメントを自らの肉体の死を以て、生け花のように芸術作品化したようにしか思えない。いまだに切腹の意味と理屈は誰にもわからないだろう。
「英雄的」であったかどうかはわからないが、江戸時代には多くの人々が死に急いだ。例え三島がそういう時代の人間存在形式に憧れていたとしても、自分自身で実現することは何の魁けになったのだろう。
ただ、45歳で死んだ彼はそこで凍結されたままである。老いる事が無かった事が三島由紀夫を輝かせている。
盾の会がなんであったのか、残った者たちの声を聞いてみたい。
今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは 森田必勝
予断を排して、三島由紀夫個人にとっては必然的にこうなったはずと解釈してみると、死を完成させる為には煌びやかな三島の言語はもはや力を持ち得なかった。肉体を捧げるために言語を超えなければならなかったのではないか。彼の語らざる部分の必然性はそう思うことで、後追いで埋めるしか無い。
破を通じて、自由なる離に至る。芸術としてはわからなくもない。
追補2017.8.21
それから5年後の記事
産経ニュース
2015.11.22 06:00
【三島由紀夫没後45年(上)】決起した元会員、貫く沈黙 肩の刀傷…今も悔いなく
自衛隊員の野次に遮られて演説を中断した三島由紀夫は、森田必勝(向かって右)と天皇陛下万歳を叫美、その後、自決した(三島森田事務所提供)
日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)
無意識のうちに身体に染みついてしまったのだろうか。その男性は話題が事件に触れようとする度、何かを確認するように右肩に手をそえた。理由を問うと、一瞬、驚いた表情をしたが、何も答えず、すぐに笑顔に戻った。古賀(現荒地)浩靖(68)。三島と共に決起、自決した三島と森田必勝(まさかつ)=当時(25)=を介錯した。
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関係者から、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室で自衛隊員ともみあった際、三島の日本刀が右肩に当たり、5針を縫う傷を負ったと聞いていた。古賀にとって刀傷は身体に刻みこまれた三島の形見なのかもしれない-。ふと、そんな思いが頭をよぎった。
「思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。日本の文化、伝統、歴史を守るために、今度の行動に出た」
古賀は裁判で詳細を語っているが、事件後は公の場から姿を消し、一切、口を閉ざしてきた。この日も、「自衛隊には誇りと栄誉を与えないといけない」「憲法は変えないといけない」と語っただけで、沈黙を通した。
穏やかな表情を崩さないため真意を読み取るのは難しいが、裁判での証言内容を考え合わせると、今も決起したことに悔いは感じられない。むしろ、自衛隊の敷地内で非合法的な行為を犯したのだから、自衛隊員の手で射殺されることを覚悟していたのではないか、射殺されることで自衛隊を目覚めさせようと考えたのではないか、とさえ感じた。ただ今も、ケガを負った自衛隊員への呵責は強く感じているようだ。心の内を明かさないため、確認できないが、沈黙を貫いているのは、その呵責と、思いを示すには行動以外になかった以上、それを言葉で表現しようにも表現できないのではないか。そんな印象を持った。
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口を閉ざしているのは、小賀正義(67)と小川正洋(同)も同じだ。
小賀は「公判で話した以上のことは話せない」と呪文のように繰り返した。ただ、事件の6日前、学生長の森田が、新宿の工事現場で段ボールに入った書類を燃やしているのを見たという。当時、森田は自決し、小賀は生き残ることが決まっていた。目の前で人生の総決算をする森田の姿に、小賀は何を感じたのか。何も語らないが、想像するだけで心が痛んだ。
小川も詳細については、楯の会の関係者にさえ、口をつぐんでいるという。
三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。
元会員は「われわれは伝統や文化という精神世界よりも経済価値が優先される社会に憤りを感じ、道義の腐敗の根源は憲法にあると考えていた。刺し違えてでも現憲法を改正するんだと、行動を共にしてきた」と話す。
三島は事件直前の最後の打ち合わせの席でこう言っている。「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」
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三島ら5人の決起に一番ショックを受けたのは楯の会の会員たちだった。決起は参画した会員以外には知らされていなかったからだ。
楯の会創設にかかわった伊藤好雄(69)は三島と森田必勝の自決を自宅のテレビニュースで知った。「びっくりした、の一言」だった。任意で警察の調べを受けたが、それ以降のことは何も覚えていないという。取り残されたという思いが強く、三島と森田に対し負い目を感じた。早稲田大卒業後も「自分に使命が下りてきたとき、迷わず行ける態勢を作っておこうと、就職せず、女性とも付き合わなかった」という。
伊藤は45年春、三島から呼び出されたことが今でも忘れられない。「信用できるのはだれだと思うか」。三島の問いに答えは出てこなかった。裁判でこの時期、構想を練る三島と森田が小賀正義と小川正洋に声を掛けていたこと、4番目の男が決まっていなかったことを知り、三島の問いが改めて重くのしかかった。
伊藤と親しい1期生の篠原裕(ゆたか)(68)は、月1回の定例会が行われる予定だった市ケ谷会館で異変を知った。「何も知らずに例会があると思っていた。不明を恥じるほかなかった。事件以降、楯の会の会員だったと胸を張って言えなくなった」
勝又武校(たけとし)(68)は自宅で事件を知る。「恥ずかしいから話したくない」としながらも「バルコニーでヤジられている先生の顔は今でも忘れない。悔しく、無念だったと思う。その無念さは私自身の無念だ。(一緒に)行きたかった」と語る。
死が脳裏をかすめた元会員もいる。倉持(現本多)清(68)は「二・二六事件を取り上げた『憂国』では、新婚を理由に決起から外された中尉が腹を切っている。私も結婚を控えていたから腹を切るべきだったのか、と考えた」と打ち明ける。
一方、口をつぐみ続ける小賀ら3人の心中も複雑だ。
元会員の田村司(65)が、会員の思いを監修した「火群(ほむら)のゆくへ」の中で、初代学生長の持丸博(故人)が「嵐の只(ただ)中にいた人はもちろん、同心円から少し離れた人も皆、十字架を背負っています。だから、なかなか話せないんです。みんなそれぞれ悩んで今まで生きてきた。毎日悩んでいるわけじゃないけど、なんかの拍子にずっしり重くのしかかってくる」と語っている。
■ ■
三島が学生と接触を持つようになったのは41年暮れからだ。文芸評論家の林房雄の紹介だった。
当時日本は、東京五輪開催などを受け、高度経済成長の真っただ中にあった。同時に、中国の文化大革命の影響で、左翼思想が蔓延し学園紛争が拡大、学生らはそれぞれの組織でこうした勢力に対抗していた。
倉持は「学生は必ずしも考え方が一枚岩ではなかったが、天皇を敬う心情と共産主義に対する嫌悪感は共通していた」と振り返る。
三島はその後、楯の会の前身となる「祖国防衛隊」の結成を計画。43年3月、20人の学生と陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地で体験入隊を行うが、この体験入隊を機に三島と学生との距離は急速に縮まる。
小賀は裁判で「三島先生と同じ釜の飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら(中略)心強かったし、先生の真心が感じられた。本当に信頼できる人だと思った」と証言している。
伊藤は「先生は『作家・三島由紀夫に興味のある者は楯の会に必要ない』といつも言っていた。身近な存在で、男女の恋愛ではないが、糸でつながったような気がして、先生というリーダーを得て目標が見えた」と話す。
楯の会は、何事にも率先垂範し、カリスマ性と吸引力を持つ三島を頂点に、強い信頼関係に支えられた強靱な組織に成長する。それだけに、最後まで会にとどまった会員が「自分はなぜ、選ばれなかったのか」という気持ちにさいなまれたのは当然のことだった。
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三島はこうした会員の思いを見越したかのように会員に課題を与えた。
遺書では「諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい」と述べ、小賀ら3人には「森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と命じている。
元会員の多くは「命令書は今も生きている」と口をそろえるが、勝又は「自分がだらしないだけの話だが、やることをやっていないので、先生と森田さんに申し訳ない」と言う。三島らの思いは今も、日本人の喉元に刃を突きつけている。 (敬称略)
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遺書、檄文、命令書の全文と証言集は、インターネット「産経ニュース」の特集「三島由紀夫事件」に掲載しています。
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