公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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「山崎闇斎の世界」 田尻祐一郎

2016-01-17 11:17:37 | 今読んでる本
この仁義も人情もない21世紀の時代に、朱子学と言っても何をいまさら何をと思うかもしれないが、私は山崎闇斎の思想の転回に興味がある。朱子学が導くところの偏った保守主義の典型規範に朱子学を留めなかったのが闇斎である。本来朱子学が背景とした徹底した現世主義を極度心状況で試すのが、山崎闇斎の真骨頂である。徹底した現世の人倫主義が発展して神道を選択するという当時としては非常にラジカルな転換が面白く、学ぶところが大いにある。闇斎は最終的には魂が神格を獲得できるという結論に達する。未完成であるがこのアプローチは個物が普遍を内包するという宇宙論である。

『天蓋天地之間、唯理与気、而神也者理之乗気而出入者』

このように闇斎にとって神は、いろいろな形で表出する媒介項に過ぎないという思想がよくわかる。気に正邪がある故に邪神、聖神がある。故に仏教もキリスト教も邪神教である。何となれば来世の受益を唱えて気を穢しているから、と闇斎は主張する。心を清め整えてはじめて本当に自分が聞くべき普遍的な声が聞こえてくる。内村鑑三はキリスト者であるが、宗教を科学の一種と捉えて「科学の方法はまた宗教の方法である」と言っている。こういう実証実践を強調した捉え方は、キリスト教の伝統からすると非常に異端な考え方である。明治初期の日本人には共通して人倫で起こること(宗教、信仰、世間)が己の実践の結果と捉えているところがある。

清澄なる情緒を以って、人倫の諸関係をとらえ、現世の気を整えることを以って人倫主義と神格信仰とを一致せしめるという思想が保科正之ら会津君臣の契りを徹底して支えている。これで思い出すのが柳田國男の少年の日の祠の記憶だ。この祠も私的な生祀(せいし)だったのだろう。江戸時代の儒教は長命祈念と結びついて裾野が広かったことがわかる。
体験を教養や知識、通説や科学で解釈するのではなく、得がたい特殊な個物の体験をどう情緒で直覚するか、通心則妙心の準備ができていなければ、その体験の大きさを知ることができない。

知識は正しい順で学ばねば人生を無駄にしてしまう。第二の心が目覚める4歳の心は非常に大切な時に相当する。

参考
私は私一個として基督が私達に遺して行った生活をかく考えることはどうしても出来ない。 基督は与えることを苦痛とするような愛の貧乏人では決してなかったのだ。 基督は私達を既に彼の中に奪ってしまったのだ。
有島武郎『惜みなく愛は奪う』より引用
愛を奪うとは、人倫に愛があるということを措定する。正しいキリスト教は人倫の愛は神の恩寵であっても、神の意志ではないので神の前に捨てよと主張しているのだ。

『心則明神之舎』卜部兼倶

に通じる。これは岡潔の思想でもある。さて山崎闇斎が朱子学における知の敗北を闇斎がどう認めたのかそこが見処なのだが、まだそこまで読んでいない。




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