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329年前の三線 志堅原比屋(しけんばるひや) 年代が確認できる最古の三線

2018-07-03 19:23:11 | 三線

まず、『球陽』(きゅうよう)は、1743年から1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である。

その歴史書「球陽」が記録する人物「志堅原比屋(しけんばるひや)」が使ったとされる329年前の三線を沖縄コレクター友の会の翁長良明さん(69)=那覇市=がこのほど入手した。

県立博物館・美術館の学芸員らが23日に現物を確認し、棹(さお)の部分は当時のものと判断した。

来年2月開かれる同館の企画展でも展示する予定だ。

棹の部分には西暦で1689年に相当する「康熙28年」や作り手の名前とみられる「真壁里之子ウチ」「志堅原比屋求之」などが刻まれている。

胴などその他の部分は張り替えなど手が加えられているとみられる。

「球陽」などの資料によると、志堅原比屋は南風原間切宮平村へ行って三線を弾いたとある。

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南風原町(はえばる)の宮平(みやひら)は、私の自宅から10分程度で行けるところに、今もちゃんとある。

数日前に「ぬちとぅい三線 ハナンダ三線」の話を掲載しましたが、

まさか、この志堅原比屋三線もハナンダ三線も同じ玉城(たまぐすく)と関係があることが判り、びっくりしました。

当初、「しけんばるひや」?と聞いたとき、なんじゃ? この読み方は! と思いました。

そこで調べたら、志堅原 比屋 であり、姓+名、あるいは、地名+名前だろうということが判りました。

沖縄県民の名前は地名に由来するのが多いので、志堅原もそうだと思い調べたら、なんと玉城だったのです。

※玉城志堅原はこちらを参照  備考:ハナンダ三線は玉城糸数村の青年に寸借された。

さて、その志堅原比屋の三線ですが、以下のエピソードが残されています。

面白いので、こちらでも紹介したいと思います。

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昔、志堅原の比屋という三線弾きの遊女がいて、南風原(はえばる)の宮平(みやひら)の少年と三線を弾いて一日中遊んだ。

村の照屋という者が比屋の持っている三線が欲しくなって売ってくれと頼んだが比屋にとっても愛用のものであったので断った。

しかし、照屋がしつこく頼むのだから比屋はしかたなく安くで売った。

その後比屋は病気になり偶然、宮平で死んでしまったが、幽霊となってたびたび姿を現した。

3年ばかり経って、ある夜、照屋と比屋は道で逢った。

比屋は照屋に三線を見せてくれと頼んだので、照屋は比屋を自分の家に連れて行ったら、門まで来ると比屋は急に風になって飛んで行ってしまった。

照屋は比屋の遺念が残るのを恐れて三線を弾いて聞かせたら、その後比屋は2度と現れなかったという。

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この三線は、その後どういう経緯をたどったのかは不明ですが、
昭和62年8月24日の三線鑑賞会に突然出品され、その存在が確認され、現在に至っております。

以上 

宜保榮治郎 著 「三線のはなし」より

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先日、ドライブをしていたら偶然に志堅原バス停を見つけました。ちょっとびっくり!

 

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ついでにこちらのお話もどうぞ。

妖器ハナンダ三線

昔、玉城間切「たまぐすくまぎり(関所)」に按司(あじ)と呼ばれた人がいて、死後ハナンダの祠を利用して墓に葬られたのでハナンダの按司と呼ばれた。

その墓には愛用した三線が供えられていた。
祠は村外れにあり、しかも風雨にも濡れない場所であったので村の青年たちの恰好のモーアシビ(野遊び)場所であった。

モーアシビには三線が欠かせないので、三線弾きの青年がたまたまそのハナンダ按司の三線を寸借して弾いてみたところ名器であった。

寸借が延長して悪いとは知りながらとうとう家に持ち帰って愛用するようになった。

ところが、その三線を家に持ち帰ってから青年は次第に体に変調をきたすようになった。

原因を確かめる為ムヌシリ(霊媒者・易者)に伺いをたてたところ、「お前は人様のものを勝手に横取りしている節がある。
それが原因だろうからはやく持ち主に返すように」と判事が出た。

若者はびっくりして早速ハナンダの子孫を訪れ、詫びを入れ受け取ってくれるようにお願いした。
ところが、子孫もさるもの、「お前が持っているのからもうお前のものだ、受け取るわけにはいかない」と取り合ってくれない。

途方にくれた青年は早く処理しないとヌチミー(命)にかかわることなので手放すことに決め、三線の上手な宮城嗣周青年のところに持ち込んだ。

訳を聞いた嗣周さんは試しに弾いて見ると実にいい音色であった。
三線が悪さすることがあるものかと思い買うことに決めた。
まだウヤガカイ(独身で親の保護の身分)であるので父に詳細を話し、了解を求めたところ「お前は悪霊を祓(はら)う柳節もなんとか弾けるので、いいのではないか」と言って父は途方もないことをする息子だと苦笑いしながら許しを与えた。

嗣周青年は毎晩のように心ゆくまで三線を弾き楽しんだ。
ところがある晩、三線をランプの灯の下で弾いていると突然突風が吹き、ランプの炎が反射してめらめらとハブ(蛇)が生き返って体をよじるように輝いた。

「アベイ(危ない)ヒャー」と叫び嗣周青年は悲鳴をあげ、思わず三線をとり落した。
化け物のようなこの三線は一刻も側に置くわけにはいかないとして、翌日には元の持ち主に返した。


その後、三線はハワイへ渡ったという。

「ハワイ中暴れ回っているそうだ。人が怖がっていることは、やはり気をつけたほうがいい」(宮城嗣周談)

後日談。
このハナンダ三線を寸借していたのは糸数村西原小の青年で、その後ハワイへ渡ったハナンダは妖器のせいかハワイ中を転々とし持ち主に絶えず不幸が起こり、牧場の牛が原因不明の病気で多数倒れたり、持ち主がガンに侵されたりしたようだ。

戦後となり、この三線は、城間忠明さんの手に渡り里帰りして沖縄の古典音楽家佐久本さんが一時所有した。

さて我々の三線鑑定会も是非このハナンダを鑑賞したいものだと、宮城春行、宮城嗣周氏を通して現在の所有者に依頼するがなかなか姿を現してくれない。
聞くところによると糸満市(沖縄県南部)あたりを日陰者となってさまよっているらしい。

いらいらした会員の照喜名朝一さん(現人間国宝)は「僕に見せるんだったらちゃんと三線供養をし、その魔性を祓ってやり、明るい場所に出してやるのだが、気の毒なことに」と残念がっている。

--- 以上は、宜保榮治郎 著 「三線のはなし」より。 ---

今から40年前、この三線は、那覇市は波之上というところにあった、佐久本三線店(現在はもうありません)が所有していたといわれてます。
所有してからはあまりいいことがなく手放したそうです。(ハナンダ三線との関連は不明)

その後、私もお世話になった、三線職人の平良さん親子が所有し、そのハナンダ三線の写しも製作していたと云われてますが、すでに親子とも故人となったため確認することができません。 
平良さんは、親父さん亡きあと、1年前後で故人となりました。
確かまだ40代だったと思います。すごく驚きました。(ハナンダ三線との関連は不明)

今年2018年、6月に玉城(たまぐすく)隣の具志頭(ぐしちゃん)に調査に行ったところ、新垣さんという方を紹介してもらい、聞くとところによると今から20年くらい前にある人物から電話があり、私はハワイから戻ったハナンダ三線を持っていて、そのゆかりの場所を教えてくれとあったそうです。

しかし、新垣さんが知っているのは、ハナンダ橋向かいの階段を登った左にあるウガンジュ(拝所)なので、そこを案内したそうですが、その後のことは知らないそうです。

調査していて、不思議なことがあり、日中暑い中、歩いている人が見当たらない中で遠くから喪服姿の女性が歩いてくるのが見え、申し訳ないと思いながらもハナンダという場所があるかどうか聞くと、「ここから先に数百メートル先にありますよ」と教えてくれました。 たった一人に聞いて判ってしまうなんて、なんてラッキーな!
そう思いつつ、そこへ行くと、そこは、琉球石灰岩でできた「ハナンダー橋」でした。

なんだ、そうだったんだ! 橋の名前だったんだ「ハナンダ」は。
ハナンダ三線の名称は、この場所から付けられたんだと確信しました。

あとで、調べたところ、かつてこの場所は、琉球石灰岩でできた洞穴だったらしく、
現在は、長い年月をかけて浸食され、川となっているところだと知りました。

自然に侵食されて橋ができた珍しい場所でした。
そして判ったことはハナンダーという名称はその形が、
牛の鼻輪に似ていることからその名がついたとされています。

ですから、一見恐ろしい名前に聞こえますが、実は愛きょうある名前なのです。(安心)

更に詳しくはこちらを参照ください。「ハナンダー」


さて、次なる疑問は、墓がどこにあるかいうことです。
「三線のはなし」では、ハナンダの祠を利用して、墓に葬られたとあります。

その祠というのが、洞穴にあったのか、あるいは、現在のハナンダー橋向かいの階段途中を左奥に行ったところにある、拝所なのかはいまだ情報が不足しています。

そして、お墓の場所もよく判りませんでした。

いずれにせよ、この周辺なのではないかと考えられます。

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備考

1.按司というのは、16世紀に入ってからは位階編成上の最上位としてもっぱら国王の一族をもって任じられ、
間切(まぎり)を領する最高の身分となったとありますので、風葬ではなかったと思いますが、
私にはいまだに結論が出ていません。みなさんの想像のお任せします。

2.琉球地方の風葬には大きく分けて二通りの方法があった。

ひとつは特定の洞窟や山林(「後生グソー」と呼ばれる不浄の聖域)に遺体を安置してそのまま共同の墓所とする原始的な方法と、
亀甲墓や破風墓の中に棺を一定期間安置し、風化して白骨化した後に親族が洗骨を行い、改めて厨子甕に納める方法である。

琉球王朝時代は王族や士族以外の者が墓を持つことは原則として禁じられていたため、
大多数の庶民は前者の方式で弔われていたが、
明治以降は士族に倣(なら)った亀甲墓が一般にも広がり、後者の葬制が主流となった。
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お墓の情報をもう少し調べてみたいと思い、ハナンダー橋から離れて県道に出ました。
出たところの近くで車を停めて、さて、どうしようかと迷っていたところ、
またまた、不思議な出会いが・・・・

時間帯からして、出歩く人も無い中、幸いにも30メートル先を歩く、一人の女性がいて、
わらをも掴む思いで、走って行って、声をかけ、
「あの、すみませんが、ハナンダについて何か知りませんか?」と聞くと、

「ハナンダ? あーそうだ! こっちへ来て」といわれ、近くにある自動車工場の中へ案内されました。 
そしてそこにいた男性に向かって、「この方がハナンダのことを知りたいって」と親切に紹介してくれました。
女性は、すぐにその場を去りましたが、実は、男性は案内してくれた女性のご主人だったのです。

さて、仕事の邪魔をしてはいけないので、手短にハナンダ三線のことを話すと、
三線のことは知らないが、ハナンダというのは、私たちの門中墓すぐ手前に拝む場所があり
それではないかということでした。

門中墓ができる前から存在しており、そこには5名の名前があり、門中墓にお参りに行く際は
必ずそこに線香をあげてから、門中墓に向かうということでした。

彼が聞いたところによると、
5名の名前がある場所は、墓ではなく、単に拝む場所で、かつてばらばらにあった5名の墓を
近くの集合墓にまとめたらしい、ということでありました。

私は、まだそこまで調べていませんが、このハナンダが伝説のものと同じなのかは判りません。
でも可能性はかなり高い気がします。

ここまで辿り着いたのは、とても嬉しかったのですが、
では、肝心の三線は、今どこにあるのかということでありました。

そこで、ピンときたことがあり、玉城(たまぐすく)のM氏もとへ。

そして、ついに判明!

なんと、最初に持ち出した青年の地、糸数へ戻っていました。

M氏は、その三線を2019年の2月に県立博物館で開催される「沖縄が誇る家宝の三線展」に
出展しませんかと要望しましたが、持ち主は、「人目にさらすことはありません」と固辞したそうです。

もしかしたら、あの時、按司のゆかりの場所を尋ねた方かもしれませんね。
お名前はCさんという方らしいですが、おそらく供養して、弾くことなく静かに保管したいということなのでしょう。

ということで・・・

私も怖いので静かにしたいと思います。

妖器ハナンダ三線が、陽気ハナンダ三線になることを祈って。

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ハナンダー三線

型:糸蔵長与那城
棹の心に二つの孔がある
棹材:黒木

この三線はいつ頃のものなのか?

話の中では、間切(関所)があった時代なので、間切が廃止される1907年(明治40年)以前には存在していたことになります。
ということは、少なくとも100年以上前には存在していたことになります。

棹のイメージ(本物ではありません)

糸蔵長与那城型

2つの孔ということなのでこんな感じでしょうか?(イメージです)
本物も見たいですが、怖いのでやめておきます。(笑)

以上でハナンダ三線の調査報告を終えたいと思います。

まだ解明できていないところはありますが、今はこのあたりで終わりたいと思います。

また、新しいことが判りましたら更新したいと思います。

と思いましたが・・・・

やっぱり怖いから続きはみなさんにお任せします。(笑)

 

三線は沖縄三線.comでどうぞ。

 

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