明治初頭の牧師たちは「先生」と呼ばれることを嫌って
「おしもべさん」と呼ばれるのを好んだと言われています。
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、
できるだけ多くの人を得るために、自ら進んで
すべての人の奴隷となった」(Ⅰコリント:9・19)
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
わたしは「牧師」ではなくフツーのクリスチャンである。
しかしわたしが洗礼を受けた主イエス・キリストの教会の伝統では「洗礼を受けた者はすべてキリストの祭司職に与る者とみなされる」。
つまり洗礼を受けた者はすべて「小さなキリスト」なのである。そもそも「牧師」の「牧」とは「羊を牧する者」という意味である。
だから主の主王の王主イエス・キリストの信者たる者はすべて「小さなキリスト」の自覚をもつべきだとわたしは思う。上記の引用聖句「自ら進んですべての人の奴隷になった」とはすなわち「すべての人に対して小さなキリストとなる」ということである。
主が十字架におかかりになる前、あの最後の晩餐の席での地上最後の説教が「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ:15.12)である。
これはわたしたちフツーの人間にはいちばん難しいことだ。しかしそれでも主は言われる。「互いに小さなキリストになりなさい」と。
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「おしもべさん」と呼ばれるのを好んだと言われています。
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、
できるだけ多くの人を得るために、自ら進んで
すべての人の奴隷となった」(Ⅰコリント:9・19)
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わたしは「牧師」ではなくフツーのクリスチャンである。
しかしわたしが洗礼を受けた主イエス・キリストの教会の伝統では「洗礼を受けた者はすべてキリストの祭司職に与る者とみなされる」。
つまり洗礼を受けた者はすべて「小さなキリスト」なのである。そもそも「牧師」の「牧」とは「羊を牧する者」という意味である。
だから主の主王の王主イエス・キリストの信者たる者はすべて「小さなキリスト」の自覚をもつべきだとわたしは思う。上記の引用聖句「自ら進んですべての人の奴隷になった」とはすなわち「すべての人に対して小さなキリストとなる」ということである。
主が十字架におかかりになる前、あの最後の晩餐の席での地上最後の説教が「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ:15.12)である。
これはわたしたちフツーの人間にはいちばん難しいことだ。しかしそれでも主は言われる。「互いに小さなキリストになりなさい」と。
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