「わたしの父は今もなお働いておられる。
だから、わたしも働くのだ 」。
(ヨハネによる福音書第5章17節 )
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「働く」ということは「動く」ことではない。
主の御前に「自分のつとめをはたすこと」である。
「労働」とは元来このような意味の言葉である。
だから主より各自に与えられた「個性」と同じくひとりひとり「労働」の仕方も「労働者」としての在り方も全く違う。主の御力によっての「労働者としての多様性」とも言える。ここから「職業によって貴賎はない」という言葉もきている。
わたしたちフツーのクリスチャンは他者に「あなたの職業は何ですか」ということをめったやたらと尋ねることはしない。それはその人と主との関係を尋ねることだから、よほどのことがないかぎりは普通は気軽に聞くことはしない。
「天職」という言葉がある。実にパウロ的な言葉であるが、職業によって人の価値(社会的な価値)を量るとしたらこの言葉の意義は消し飛んでしまうだろう。現代は転職を余儀なくされる時代である。糊口をしのぐためだけの労働を日々繰り返すといった日々を過ごすわれわれに「天職」の意味を再考することをこそ必要としているのではないかと思う。
教会の内部にあっても、職業によってその人の価値を量ったり、失職した人を受け入れなかったりといったことが現実に行なわれている。憂慮すべき事柄である。
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