漠然とした神は、力になりません。
川に溺れた人が、近くにいる友人の名前を呼ぶように、
わたしたちも具体的に、イエスの御名を、大声で全身で
呼ばなくてはなりません。
(「ルカによる福音書」上、1~10章 蓮見和男著 新教出版社 )
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あなたは何か助けてもらいたくて他者の名前を呼ぶとき
その他者をよく知っているだろうか?
まさか「神さま、ホトケさま、イエスさま、○×さま助けて」
などと神の名を知りうるかぎり叫ぶことはしまい。
わたしはフツーのクリスチャンとして主よと全身全霊をこめて
力のかぎり主をお呼びすることにしている。
何か危ないとすぐに「主よ」と反射的に心の中でこの御方をお呼びしている。
この「主」という御名はもちろん父と子と聖霊なる主ご自身の御名である。
わたしは伝統的なキリスト教の立場から父と子と聖霊なる主をわたしの神と
して崇めて信仰している。
この父と子と聖霊なる主は具体的に福音書の中で主イエス・キリストという
「人となった神」が、ご自分のことをあかしされている。
もちろん福音記者だけではなく、彼らと共にいて彼と親しくさせていただいた
大勢の証人たちによってである。
わたしが朝晩お祈りさせていただいているお祈りの対象はこの父と子と聖霊なる
主ご自身である。だからもちろん「漠然とした神さま」に向けてではない。
はっきりと父と子と聖霊なる主ご自身を主イエス・キリストを思い浮かべながら
「主よ」と全身全霊で主の御名をお祈りさせていただいている。
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