「やみの中から光が照り出でよ」と仰せになった神は、
キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために
わたしたちの心を照らして下さったのである。
(コリント人への第二の手紙 第4章6節 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
「神の栄光の知識」とは何だろう?
わたしはフツーのクリスチャンとして主の御前で正直に告白するが、これはわたしの持っている”キリストの知識”ではない。
では、何か?
一言で言えば”知識”というより”体験”である。
まるで乾いた大地に水がしみこむようにわたし自身の心と魂と体にしみ込んだ”主の復活のいのち”である。わたしはこの”体験”をさせていただいて、主の主王の王主イエス・キリストご自身に感謝すると同時に、”ラッキー”と思わず大声で叫び出したくなることがある。それほどにわたしの心と魂と体は闇だったのだとも言える。
フツーのクリスチャンにとって主がお生まれになった正確な年月日など問題ではないのだ。(もちろんわたしは毎年のクリスマスをとても大切に過ごしている。主がこの世に生まれてくださったことを自分のこととして。しるしとして。記念として)。
フツーのクリスチャンのわたしにとって主がただわたしたちのために十字架に架かってくださり、ただただわたし(たち)を生かすために十字架の死より復活してくださったこと、この「事実(できごと)」を確信させていただける信仰をいただいて生かされていることに感謝している。
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わたしたちの心を照らして下さったのである。
(コリント人への第二の手紙 第4章6節 )
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わたしはフツーのクリスチャンとして主の御前で正直に告白するが、これはわたしの持っている”キリストの知識”ではない。
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一言で言えば”知識”というより”体験”である。
まるで乾いた大地に水がしみこむようにわたし自身の心と魂と体にしみ込んだ”主の復活のいのち”である。わたしはこの”体験”をさせていただいて、主の主王の王主イエス・キリストご自身に感謝すると同時に、”ラッキー”と思わず大声で叫び出したくなることがある。それほどにわたしの心と魂と体は闇だったのだとも言える。
フツーのクリスチャンにとって主がお生まれになった正確な年月日など問題ではないのだ。(もちろんわたしは毎年のクリスマスをとても大切に過ごしている。主がこの世に生まれてくださったことを自分のこととして。しるしとして。記念として)。
フツーのクリスチャンのわたしにとって主がただわたしたちのために十字架に架かってくださり、ただただわたし(たち)を生かすために十字架の死より復活してくださったこと、この「事実(できごと)」を確信させていただける信仰をいただいて生かされていることに感謝している。
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