ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

言の葉(スタンダール):基本的人権の尊重。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

2020年04月30日 00時04分04秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
     幸福になりたいなら、
     まあ苦労のない生活と、
     毎日少しばかりの幸福とで満足することだね。
     はげしい情熱のくじなんか引こうとしないことだよ。

            (「恋愛論」第1章 31章
                   スタンダール   )
 

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 みなさんは「日本国憲法」によって定められている「基本的人権の尊重」という言葉を知っているだろうか?
 「日本国憲法」第13条に、このようにある。

  「すべての国民は個人として尊重される。
   生命、自由および幸福の追求に対する国民の権利
   については、公共の福祉に反しない限り、
   立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要をする」

 この中の「個人」とは何だろう。
 「個人」とは「あなたのこと」だ。
 「個人」とはすなわち「自分」だ。
 そしてここから「自分」とは何か?
 この「自分」はいったいどのような「幸福」を望むのか?新たな問いが生まれてくる。
 主イエス・キリストが常にわたしに突きつける問いである。
 わたしはフツーのクリスチャンとしてごくフツーの日常生活を送れればそれで「幸福」だと考える。そうやって日常を幸福に暮らしたいと願う、この「個人」を大切にすることが「基本的人権の尊重」であるのだと思う。
 わたしという「個人」の「人権」は、主イエス・キリストへの信仰の自由が国家から侵害されることなく、ごくフツーの祈りの日常生活が許されることだ。
 しかし同じ「日本国憲法」第20条に定められている「信教の自由」は残念ながらこの日本だけを考えてもアブナッカシイ状況だ。自由への侵害は国家によるものの他に、周囲の無理解からもなされることがある。自身の自由を守るためには他者のそれも尊重するという寛容を身につけなければならない。ごくフツーのクリスチャンであるわたしも、このことを肝に銘じて他者の自由をおかすことがないように心がけたい。

 ブログを創り、拙い記事を読んで頂ける自由を感謝したい。
 この自由が持続的なものであるように神に祈りを捧げたい。
 信仰の自由が保証されず、かえって迫害に合っている人たちに真の自由がもたらされますように。神に祈りを捧げたい。



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   ↓:感謝。
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