みじめといえば、底なしのものである。
神が底なしのものなら、私たちはみじめさにおいて
底なしのものであるという自覚にまで達したなら、
初めて神が動きうるであろう。
(『奥村一郎選集』<第8巻>”神に向かう祈り”
:オリエンス宗教研究所)
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わたしが所属する主イエス・キリストの教会でのお祈りの一節に「父も量りなく、子も量りなく、聖霊も量りなし」というのがある。
「量りなし」とは、上記の奥村神父の論文にあるように「底なし」ということである。つまり「限界もなし」、むずかしい神学用語を使えば「無限大」ということである。
神さまは「無限大の愛」である。
そしてわたしたち人間はその神さまが創造したものだが、旧約聖書の詩篇にあるように「神はただ少しく人を神よりも低く造った」(詩篇:8・5)のである。だから人間は「無限大の愛」とはいかない。「少し」の差が、なにしろ無限大の差と言ってもいいのだから。
神に創造された者だが神と同じ者ではない。
いや「創造された」という事実こそ「神と同じ者ではない」証拠なのである。
そして奥村神父は、神が底なし(の愛)なら、人間のみじめさ(悪)は底なしだとおっしゃっている。
あなたはこの「自覚」が「自分に」あるだろうか?
そして、わたしはどうか?
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↓:底なしのもの。
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