ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

言の葉(奥村一郎):8

2009年03月16日 00時04分13秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド


   みじめといえば、底なしのものである。
   神が底なしのものなら、私たちはみじめさにおいて
   底なしのものであるという自覚にまで達したなら、
   初めて神が動きうるであろう。

    (『奥村一郎選集』<第8巻>”神に向かう祈り”
                   :オリエンス宗教研究所)



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 わたしが所属する主イエス・キリストの教会でのお祈りの一節に「父も量りなく、子も量りなく、聖霊も量りなし」というのがある。
 「量りなし」とは、上記の奥村神父の論文にあるように「底なし」ということである。つまり「限界もなし」、むずかしい神学用語を使えば「無限大」ということである。
 神さまは「無限大の愛」である。
 そしてわたしたち人間はその神さまが創造したものだが、旧約聖書の詩篇にあるように「神はただ少しく人を神よりも低く造った」(詩篇:8・5)のである。だから人間は「無限大の愛」とはいかない。「少し」の差が、なにしろ無限大の差と言ってもいいのだから。
 神に創造された者だが神と同じ者ではない。
 いや「創造された」という事実こそ「神と同じ者ではない」証拠なのである。
 そして奥村神父は、神が底なし(の愛)なら、人間のみじめさ(悪)は底なしだとおっしゃっている。
 あなたはこの「自覚」が「自分に」あるだろうか? 
 そして、わたしはどうか?



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    ↓:底なしのもの。
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