
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。
(マタイによる福音書第5章43から45節 )
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なんという厳しいみ言葉だろうか?
この拙文を読んでくださるあなたは自分に石を投げてくる者を(つまり敵を)愛することなんてできるとお思いだろうか?しかしその敵のために祈れって?
わたしは受洗してから今の今まで上記の聖句を全く不可能なことと感じていた。こんなことを言われるなんて主はヒドイよ、と受つけられないでいることがはるかに強かった。まさに敵の方が強いのだ。
しかしそもそも「愛し、愛されること」って何なんだろう?
わたしの貧しいお祈りで、主より与えられたみ言葉は「愛する」とは相手を「理解すること」であり、「愛される」とは相手に「理解されること」というものだ。
「理解する」とはただ相手に同意したりすることではない。相手の極みまで知りつくすことだ、主へのお祈りと共に。
これは簡単なことのようでなかなかむずかしいことだ。
フツーのクリスチャンのわたしとしては相手を知ること理解することは主へのお祈りと共にでなければ、とてもじゃないが出来そうにない。しかし、One Lord,One Love. である。主は一つ、愛は一つである。
愛とは唯一の主ご自身であり、この御方のマネから始めたいし、そうさせていただくための主の御力こそ(愛の力)祈り求めるべきだとフツーのクリスチャンのわたしは痛切に自覚させていただいている。
主がわたしたちを受け入れてくださるように、わたしたちも敵と和解し受け入れことができる、そう信じたい。
さあ、祈ろう、みんなで!
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【愛敵の教えの御前で(新約聖書)】11・12・04
↓:愛敵

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