
わたしの家は、祈りの家ととなえられるべきである。
「マタイによる福音書 第21章 13節」
☆★★☆ ☆★★☆ ☆★★☆ ☆★★☆
ここで主イエス・キリストが「わたしの家」と言っている場所は「教会」という場所に限らない。
わたしの体と心と魂のことだ。
そしてあなた自身の体と心と魂のことだ。
ここに主イエス・キリストが「わたしの家」と言って住んでくださるのだ。
だからわたしたちフツーのクリスチャンはそしてクリスチャンでなくとも、主イエス・キリストに向かってお祈りすれば必ず主イエス・キリストは来てくださる。これはわたしのクリスチャンとしての実体験である。
お祈りの場所は「自宅」とは限らない。道を歩いていても、あるいは電車に乗っていても、自動車に乗っていても、あるいは飛行機の中でも、「ありとあらゆる場所が、お祈りの場所」となる。自分にお祈りをする意思のある限り。
以前、わたしは「お祈りは主イエス・キリストより与えられるもの」という主旨で[言の葉]を書かせていただいた。そう、つまり「自分自身がお祈りの器」なのである。
「自分自身がまず主イエス・キリストのお祈りの家」としていただければよいのだ。むずかしいことではない。
お祈りがしたいと思った、そのときこそ主イエス・キリストがあなたを呼ばれているのだ。あなた自身を「わたしの家」にしたいと思ってくださっているのだ。
あなたもあなたとあなたの家族や友人、恋人、のために「主イエス・キリストのお祈りの家」となったらいかがだろうか。
☆★★☆ ☆★★☆ ☆★★☆ ☆★★☆
↓;家。
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ここで主イエス・キリストが「わたしの家」と言っている場所は「教会」という場所に限らない。
わたしの体と心と魂のことだ。
そしてあなた自身の体と心と魂のことだ。
ここに主イエス・キリストが「わたしの家」と言って住んでくださるのだ。
だからわたしたちフツーのクリスチャンはそしてクリスチャンでなくとも、主イエス・キリストに向かってお祈りすれば必ず主イエス・キリストは来てくださる。これはわたしのクリスチャンとしての実体験である。
お祈りの場所は「自宅」とは限らない。道を歩いていても、あるいは電車に乗っていても、自動車に乗っていても、あるいは飛行機の中でも、「ありとあらゆる場所が、お祈りの場所」となる。自分にお祈りをする意思のある限り。
以前、わたしは「お祈りは主イエス・キリストより与えられるもの」という主旨で[言の葉]を書かせていただいた。そう、つまり「自分自身がお祈りの器」なのである。
「自分自身がまず主イエス・キリストのお祈りの家」としていただければよいのだ。むずかしいことではない。
お祈りがしたいと思った、そのときこそ主イエス・キリストがあなたを呼ばれているのだ。あなた自身を「わたしの家」にしたいと思ってくださっているのだ。
あなたもあなたとあなたの家族や友人、恋人、のために「主イエス・キリストのお祈りの家」となったらいかがだろうか。
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