ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

主イエス・キリストのつるぎはみことば。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(旧約聖書)

2020年09月16日 00時03分16秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
     つるぎをもって悪しき者から
     わたしのいのちをお救いください。

        (詩篇 第17編 13節 )



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 ここで書かれている「つるぎ」とは、いわゆる戦争の武器の「剣」ではない。
 ずばり主イエス・キリストの「みことば」である。
 わたしのようなフツーのクリスチャンにとって主イエス・キリストの「みことば」はつるぎであり、その意味で上記の聖句に書かれてあるように「悪しき者と戦う武器」といえる。
 ここで言っている「悪しき者」とは、いわゆる流行の「悪魔」のことも指すことは指すが、それよりももっと深い意味を持っている。フツーのクリスチャンに対抗していろいろイチャモンをつけてくる不寛容な他宗教のことも指す(クリスチャンにも不寛容さはあるのだが)には指すが、それよりももっと深い意味を持っている。
 フツーのクリスチャンのわたしにとって「悪しき者」とは、「わたし自身の中に厳として存在する反キリストのこと」だ。つまりフツーのクリスチャンの敵は、フツーのクリスチャンのわたし自身の中に存在する。
 このことに関してパウロが新約聖書のローマ人への手紙第7章17節~24節に、主イエス・キリストの御前(みまえ)に「最も苦しいこと」として書いている。
 「そこで善をしようと欲しているわたしに悪が入り込んでいるという法則があるのを見る」とパウロは書いているが、このわたしの拙文をお読みいただいている方の中にもこのような体験をしたことがあるとハタと思いあたる方もおられると思う。つまりパウロでさえわたしと同じところがあるのである。決して「聖人」だからすべてに超越しているというわけではないのだ。あるいは自身の悪しき部分を誰よりも身にしみて痛みを持って認識している人物とさえ言えるかもしれない。
 わたしもパウロにならって次のように言える。
 「主イエス・キリストの御前で、人間として、自分は罪人です、とハッキリと自覚を持っていいます。主イエス・キリストの愛によりお許し下さい」。
 「自分の中の悪と戦う唯一の武器」が「主イエス・キリストのみことば」なのである。



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