富んでいる者が神の国にはいるよりは、
らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。
(マルコによる福音書 第10章 第25節 )
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日本でも、クリスマスシーズンになると街にクリスマスツリーが飾ってあるものだ。
わたしたちはフツーのクリスチャンとしてこれを主イエス・キリストの御力(みちから)によるものだと思って、主イエス・キリストに賛美のお祈りをしている。
一般の人は、この「クリスマス商戦」をただ「富」のしるしとして歓迎する。これもまた良いことだと思う。
「富」の第一のしるし「経済活動」は、人間にとって最も基本的な人間的活動だということは、主イエス・キリストは熟知しておられるとわたしたちフツーのクリスチャンは信じている。
上記に引用した「富んでいる者」への厳しい戒めのことばは、いったい何を意味するのだろうか。
実際にお金のある者は、神の国に入ることができないのだろうか?
だとすれば現在、先進国と言われている国に住む人々は、おそらくほとんどの人が神の国への入国を許されないことになる。トランプはもちろん、オバマさんでさえも神の国の門の前で、追い払われることになるのではないだろうか。きっと、神の国の難民は膨大な数に上るだろう。そしてその前を、らくだがミエー、ミエーと啼きながら入国して行く姿をみることになるのかもしれない。
「富んでいる者」とは、どんな人のことを言うのか。もちろんここでは愛に富む人でないことは明らかであると思う。だとすれば、結局、こういうことになるのだと思う。フツーのクリスチャンとしてわたしは次のように思う。
「自分のうちに愛がない者」、「愛が分からない者」、「愛がないことを自覚出来ていない者」。経済的に富んでいる者は、多くの場合「愛に目覚めていない」。神の愛も気が付かない。与えるべき愛にも頓着しない。だから、主イエス・キリストは、そういう「富んでいる者」が神の国にはいるのは、相当に困難だ。(ほとんど不可能だ)、と言われたのだとわたしは思っている。
とにかく自覚に乏しい者は救われないのだ。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなたがた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の不自由な者、裸な者であることに気がついていない」(ヨハネ黙示録第3章17節)。
こんな聖句もある。
あなたはどのように思うだろうか?
少なくともフツーのクリスチャンとしてわたしは「富んでいる者」とは、「自分のうちに愛の乏しいわたし自身」なのだと思っている。
だから、わたしは祈る。
「主よ、あなたの愛をください、あなたの愛で愛せる者としてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします」と。 アーメン。
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