わたしたちは、この純真さ、初心を忘れる、すべて慣れっこになり、
キリスト教が分かってしまいます。
「十字架でしょう、次は復活でしょう」。
「分かっているキリスト教」は分かっていないのです。
(「ペテロ書、ヨハネ書、ユダ書」蓮見和男著 新教出版社 )
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これは「主によって自分は救われているのだ」という魂の奥底からの感謝とよろこびと希望による主への信仰を忘れすべてマインドのない、イッツオートマチックに「主の十字架は愛なんですよ。このことを信じているからわたしたち復活のいのちに生かされるんです」といと気楽に主への信仰を持ってしまうことである。
もちろんそれでも「キリスト教は分かっている」と言える。しかし、主の御心いわばマインドは全く分かっていない。
「霊魂と肉体にてひとつの人間なるごとく、神と人にてひとつのキリストなり」というマインドが全くない。
つまり究極的に言ってしまうと「愛」がない信仰である。
「愛」を求めてやまないキリスト教が「愛」のないものになってしまっている、そんなクリスチャンのいかに多いことか。
だから父と子と聖霊なる主を信じさせていただくために主イエス・キリストとはどのような御方なのかをいつもいかなる時も祈り求めていなければならない。それを一分一秒間断なく主イエス・キリストの御前に自分を置くことである。
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