キリストはわたしたちの平和であって、
二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を
取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から
なっている戒めの律法を廃棄したのである。
それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に
造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、
二つのものを一つのからだとして神と和解させ、
敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
(「エペソ人への手紙第2章14節~16節 )
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上記引用の聖句の「二つのものを一つにし」とは人間にかぎって言えば霊魂と肉体である。(地球という惑星の人間に限って言えば)、フツーのクリスチャンのわたしが朝晩唱えお祈りしているお祈りの言葉(アタナシオ信条の一節)の通りである。つまり「霊魂と肉体にてひとつの人なるごとく神と人にてひとつのキリストなり」というキリストと人間の関係を主の御名によって讃美している一節のとおりである。
主の主王の王主イエス・キリストが降臨なさったことはわたしたち人間と神ご自身との「和解」を意味する。それはわたしというちっぽけなひとりの人間をよくよく見てみてもわかることだ。
わたしたち人間(に限って言えば)霊魂と肉体がばらばらになりやすい、まことに歪(いびつ)な生命体なのである。霊魂つまり心の状態がいわゆる悪い状態になれば肉体も悪い状態になりやすいと言える。(このかぎりではないが)だからフツーのクリスチャンのこのわたしにとって主へのお祈りは何よりのいわば心と肉体の健康法であると主イエス・キリストの御名によって断言させていただける。
しかしかのカール・マルクスの言葉にこんなものがある。
「宗教はアヘンになりうる」と。
わたしはフツーのクリスチャンだがこのマルクスはわたしにとって主よりの預言者のひとりという理解が与えられている。しかし、「宗教はアヘンになりうる」とはなんという激しいみ言葉だろう。けれどもフツーのクリスチャンのわたしはフツーのクリスチャンとしての自分の「お祈り」が「アヘン」になりうる危険を常に自分の内にはらんでいることを想起させていただける主よりのみ言葉のひとつである。
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二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を
取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から
なっている戒めの律法を廃棄したのである。
それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に
造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、
二つのものを一つのからだとして神と和解させ、
敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
(「エペソ人への手紙第2章14節~16節 )
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上記引用の聖句の「二つのものを一つにし」とは人間にかぎって言えば霊魂と肉体である。(地球という惑星の人間に限って言えば)、フツーのクリスチャンのわたしが朝晩唱えお祈りしているお祈りの言葉(アタナシオ信条の一節)の通りである。つまり「霊魂と肉体にてひとつの人なるごとく神と人にてひとつのキリストなり」というキリストと人間の関係を主の御名によって讃美している一節のとおりである。
主の主王の王主イエス・キリストが降臨なさったことはわたしたち人間と神ご自身との「和解」を意味する。それはわたしというちっぽけなひとりの人間をよくよく見てみてもわかることだ。
わたしたち人間(に限って言えば)霊魂と肉体がばらばらになりやすい、まことに歪(いびつ)な生命体なのである。霊魂つまり心の状態がいわゆる悪い状態になれば肉体も悪い状態になりやすいと言える。(このかぎりではないが)だからフツーのクリスチャンのこのわたしにとって主へのお祈りは何よりのいわば心と肉体の健康法であると主イエス・キリストの御名によって断言させていただける。
しかしかのカール・マルクスの言葉にこんなものがある。
「宗教はアヘンになりうる」と。
わたしはフツーのクリスチャンだがこのマルクスはわたしにとって主よりの預言者のひとりという理解が与えられている。しかし、「宗教はアヘンになりうる」とはなんという激しいみ言葉だろう。けれどもフツーのクリスチャンのわたしはフツーのクリスチャンとしての自分の「お祈り」が「アヘン」になりうる危険を常に自分の内にはらんでいることを想起させていただける主よりのみ言葉のひとつである。
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