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それを広げていくと諸学問、文学、政治、経済、物理と
いうような分野にまで神学との接触点が見つけられなければ
ならないということになるであろう。
(奥村一郎選集 第8巻 「神に向かう祈り」 )
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フツーのクリスチャンのわたしにとっては神学とは主イエス・キリストを訪ね極めることのすべてである。
この意味で上記に引用させていただいた奥村一郎神父の論文の一節はまことによく分かる。
フツーのクリスチャンのわたしごときが言うのもおこがましいが、わたしは主イエス・キリストを訪ね極める姿勢であらゆる分野の学術書に幼いころから親しんできた。今にして思うに、このわたしにいろいろな学術書を読ませたのも主イエス・キリストご自身である。
世界中でバイキンのごとくに扱われているカール・マルクスの言葉にこんなものがある。
「もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命現象を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、ひとつの不幸である」(経済学・哲学草稿)。
このペスト菌マルクスの言葉をわたしは主の主・王の王である主イエス・キリストのみ言葉として見ることができたこの瞬間わたしは涙がでそうになった。なぜこのようなことばを与えられたカール・マルクスが世界中でペスト菌扱いされているのか理解に苦しむ。「自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、ひとつの不幸である」とマルクスは言っている。ここにクリスチャン諸氏は「サタンも光の天使に化ける」を見出すだけなのだろうか?
いや、この浅学非才のわたし、フツーのクリスチャンのわたしは「マルクスとして具現化した主イエス・キリストそのもの」を見る。愛そのものを見る。主イエス・キリストに愛されていることを感じる人間として自分を見ないならば、自分の愛は無力以外の何ものでもないのだ。
わたしはフツーのクリスチャンのとして毎朝、目が覚めるとその瞬間に「善き眠りをお与えくださったことを感謝します」とまず、ごく自然にお祈りが与えられる。そして今日も主イエス・キリストを訪ねにただただ愛されている自分を感じながら生きるのである。生かされるのである。
この愛に応えることのできない自分自身の痛みを感じながら。
主イエス・キリストの御前では「無」に等しい自分を、今日も明日も永遠に感じながら生かされてゆく。
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↓:そそがれる愛。
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