法が本質的に理性に属するものであり、
人間理性がそれに従い、それに導かれる
ことによって自らを理性としてより完全に
することができるものであるならば、法に
よる規制は理性にとって自然であり、決して
暴力的な強制ではありえないからである。
(トマス・アクィナス『神学大全』稲垣良典著
講談社選書メチエ )
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上記引用文は人間にとって(人間は社会的動物であり国家を形成する動物であるから)ごくごくナチュラルなことを言っている。
フツーのクリスチャンのわたしは「法」というものの根源は主がいつも口をすっぱくしてわたしにおっしゃっくださる「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」につきると痛切に思っている。これはすべての宗教のワクを超えているし、トマスが言っている「共通善」に至るため(つまりフツーのクリスチャンのわたしにとっては『主に似た者とされてゆく』)の最も根源的であると思う。「法学」というとたいていの人がそんな堅苦しいモノという反応を示すが要するに本当は人間にとって何が人間同士「愛」をもって生きるために必要かを追求する「学問」のひとつではないだろうか?
その意味で「法」のマインドは「主よりの愛」だとフツーのクリスチャンのわたしは主張してやまない。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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