苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。
(詩篇 第119編 71節 )
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これを読んだ時、というより、このみことばに出会った時、わたしは「ああ、わたしのちっぽけな苦しみは無駄ではなかった。主が報いてくださった」と、とても慰められた。
全身全霊が慰められた。主の御手が小さなわたしの頭をそっと撫でてくださったという自覚が与えられた。人によっては「キリスト教って、なんあて酷なことを言うんだろう」と不可思議に思ったり腹を立てたりする方もいらっしゃると思う。
しかし、わたしの個人的な宗教体験(啓示)はそうではなかった。
主は他者の眼には取るに足らないと思われてしまうような小さなどのような苦しみも決して「酷な眼でごらんになっているのではない」というのがわたしに与えられた確信である。まさしく主の十字架の苦しみはあなたの苦しみであり、いのちあるすべての者の苦しみのすべてだった。そしてそれは主の十字架の死よりの復活への道であった。
そしてこの小さなフツーのクリスチャンのわたしは主イエス・キリストの復活のいのちに生かされている。
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↓:♥。ra9.✝。
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全身全霊が慰められた。主の御手が小さなわたしの頭をそっと撫でてくださったという自覚が与えられた。人によっては「キリスト教って、なんあて酷なことを言うんだろう」と不可思議に思ったり腹を立てたりする方もいらっしゃると思う。
しかし、わたしの個人的な宗教体験(啓示)はそうではなかった。
主は他者の眼には取るに足らないと思われてしまうような小さなどのような苦しみも決して「酷な眼でごらんになっているのではない」というのがわたしに与えられた確信である。まさしく主の十字架の苦しみはあなたの苦しみであり、いのちあるすべての者の苦しみのすべてだった。そしてそれは主の十字架の死よりの復活への道であった。
そしてこの小さなフツーのクリスチャンのわたしは主イエス・キリストの復活のいのちに生かされている。
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