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「でにをは」別口入力・三属性の変換による日本語入力 - ペンタクラスタキーボードのコンセプト解説

レトリックの陰謀論

2022-01-09 | ビッグマウス(砕けた文体)(仮)

 

 

 

今回は去年読んだ書籍の中からの引用を多く含みます。とりあげた書籍にはボヤっとではありますが通底する共通性があります。
出発点はある危機感からのものです。
最近、「言葉の力が弱っていないか?」そう自問自答することが多くなってきています。
もちろんテキストコミュニケーション自体は隆盛を誇っておりますし
SNSなどでは炎上もありバズりもあり良くも悪くも賑やかに言葉が行き交っています。
かと思えば「ロジハラ」という想像だにしない言葉、論理で説得して何がいけないのか…理解に苦しむ現象も垣間見れます。
言葉が揺らいでいるのではなく「論理」が揺らいでいる…こう言い直した方がより正確なのかもしれません。
反動としてシンクロするのは「論破ブーム」の危うさに潜む、明快さに過度に依拠しているのは自信のなさの表れなのではないかという側面です。
人々がわかりやすいものに飛びついてしまうのは先行きの不透明なこの時代、確固たる拠り所を持てていないことの裏返しなのではないか
私達は皮肉なことに確かに論破という切れ味に関心を持ちつつも距離を置いた風を装って「けしからん風潮だ」とのたまわってはおりますが
見解の帰結が否定論に接地しているのか否かではなくすでにその構図・フレームに巻き込まれて一体化している時点で片棒を担がされていることに気づかないのです。
論理が軽んじられている、濫用されている…とカタチこそ違いますが根にあるところは一緒です。
論理のかわりに重視されることになったのは発言者の人的属性、つまり「何を言ったかより誰が言ったか」に重きが置かれる風潮です。
いや、別に人生訓だとか、経験から出た重みとかだったら別にいいんですけれど…誰が言ったかというのが大事だということは理解しています。
でも、革新的な価値観であるとか意外性のあることまで門前でフィルタリングしてしまって、真に面白いロジックを掬い取る器量というのが欠けてきているのではないでしょうか。
その背景には世相だとか空気だとか一過性の視点からは説明しえない、もっと深い歴史的な流れの中での理解が必要になってくると思います。
現代社会には行き詰まり感がまん延しているという状況があります。科学もそうです。人類は月にも到達しましたし量子力学も打ち建てましたがその後根幹的なパラダイムを変えるほどの画期的な変革は見られません。
音楽のコード進行にしてもそうです。ほとんどすべての進行は試し尽くされてしまった。あとは世界観だとかアレンジだとかパフォーマンスだとか本質的でないところの差別化でしか勝負できないのではないか。
まあ門外漢なんで深くへは踏み込めませんが言語以外の構築系においても多様性のその先の限界というのが分厚く立ちはだかっています。
浅学なものでポストモダンの事はよく分からないのでありますがこうして市井のいち小市民的ブロガーであるこの身にとってもポストモダンの不条理が身近に迫っている危機感を感じます。
先程の「何を言ったかより誰が言ったか」の傾向はリアルよりもはるか先行していると思われたネットの世界にも浸透してきています。
昔の2ちゃんねるや黎明期のアングラネット界隈にはには殺伐さや荒らしのカオスの只中にあっても純粋に言葉やロジックだけで説得・感化され得る場面というのが確かに感じられる場でありました。
今のSNSではより発信者というものが可視化されてネットとリアルは接近してしまってきており強者をより補強するだけのツールに成り下がってしまいました。
あれだけ可能性に溢れていたネットの世界でさえも現実世界に追従してしまっているのです。
嘆いているばかりではいられません。それがそうなら、こうした一連の諸現象の上位レイヤーにある影響要因というのをこの目で確かめてみる必要というのがありそうです。
われわれがどんな策をとれるのかどうかまではわかりませんが、現状の構造・図式を知ることで今後の展望を図る上での羅針盤になるのではないかとの期待を込めていよいよこの記事の導入に入ります。

まず1点目に紹介する書籍は
占いにはまる女性と若者 (青弓社ライブラリー)/板橋 作美
です。
現代に氾濫する占いとそれにのめり込む女性や若者の心理からはじまって、偶然の秩序化・比喩のはたらきの深い考察・ギャンブル観の男女差など論理的な背景を掘り下げた該博な書籍であり、
文化人類学/宗教人類学の観点から書かれ東京医科歯科大学教養部教授である板橋作美氏の著書となっております。
ここから長めの引用になりますが本記事の趣旨に援用できそうな時代的社会背景からの分析を紐解いていこうと思います。

p174-
生得的社会と獲得的社会

人間は社会的存在であって、かならず何らかの社会的役割や地位など、社会的なアイデンティティーをもっている。
その社会的地位は、大きく二種類ある。一つは生まれによって与えられるもので、生得的地位という。筆者であれば、男であり、△△という父と○○という母の子であり、日本国籍をもつ日本国民集団の一成員であるといったものだ。それらの社会的地位は変更できないものでもある。ただし、現在では男女は変更可能だし、同じく国籍も変えることはできる。
もう一つは、自分自身の力によって獲得する、たとえば職業などのような獲得的地位である。
人間は、たいていこの二種類の社会的地位を同時にもっているが、社会によっては、どちらか一方が支配的である場合もある。そして、どちらがより重要なのか、その違いによって生得的社会と獲得的社会に分けることがある。

身分制社会は生得的社会であり、生まれによって貴族とか平民とか決まってしまう。江戸時代の日本は生得的社会と言える。武士の子は武士、百姓の子は百姓である(実際には例外も少なからずあるが)。

(中略)

P177-
再生得的社会化

日本社会は明治以降、獲得的な社会の度合いが少しずつ強まり、そして、第二次世界大戦での敗戦によって、家族や大地主に代表されるような生得的に社会的地位を得る制度が廃止され、とくに戦後の混乱期には、能力と努力で、裸一貫から一代で財を築いた者が数多く出現した。
そのような時期に子どもから若者時代を過ごしてきた世代は、日本はきわめて獲得的な社会だと感じていたと思う。
どのような生まれだろうと、一生懸命勉強していい大学にいけば、いい就職ができ、いい給料を得ることができ、いい人生を送れる――多くの人はそう思っていた。
また、高校や大学にいかなくても、頑張ればいい生活が待っていると考えた。当時、地方から首都圏へ集団就職した中卒の若者たちが作った「若い根っこの会」は、そういう希望に燃えた人たちの集まりだった。それが日本の高度経済成長を支えてきた。
佐藤俊樹は『不平等社会日本』で、戦前までは、多くの人びとにとって「努力すればナントカなる」は夢であり、「努力してもしかたない」のが現実だった。
それが敗戦とその後の高度経済成長によって、「努力すればナントカなる」が急速に現実化していったと言っている。
ところが、ある時期から変化が起きる。戦後の高度成長期にはたしかに、日本は戦前に比べて「努力すればナントカなる」=「開かれた社会」になっていた。
だが近年、その開放性は急速に失われつつある。
社会の一〇パーセントからニ〇パーセントを占める上層を見ると、親と子の継承性が強まり、戦前以上に「努力してもしかたない」=「閉じた社会」になりつつあるというのである。
再び、生得的社会になってきたということだ。

(中略)

p179-
しかし、社会が再生得化したしたと言っても、もはやかつての身分社会のような生得的社会でもないということが、現在の問題なのではないか。
格差は昔からある。むしろ今より大きい格差だ。ただ、格差とは言わず、身分差、階級差と言った。格差の再生産も昔からある。生得的社会は格差を保存するのだから当然である。
違いは、差があってはいけないのだという社会観の有無だろう。
同じ人間でも百姓でも本家に生まれるのと分家に生まれるのでは格差があって当然、同じ本家に生まれても長男に生まれるか次男に生まれるかで格差があって当然だった。生得的社会なら、格差は当たり前なのである。

表向きは、誰でも自力でどのような職業、地位にでもつけるという獲得性を言いながら、実際には、親や家の経済力や職業や地位によってかなりが決まってしまうという生得性が強くなったことが問題なのではないのか。
名目上、獲得的社会だから問題なのである。ダメなやつは自己責任とされてしまう。生得的社会なら、そういう非難はされない。そういう身分に生まれたのだから、と。

(引用終わり)

(感想)
現代社会のの生きづらさ、格差の拡大のまさに根源となる歴史的包括的な考察が綴られている一節だと思います。
特に最後のほうの「表向き獲得的社会を謳っておきながら実質は生得的な構造を押し付けられているという矛盾」にはぐうの音も出ません。
社会構造についてこれ以上ああだこうだと管を巻くつもりはありませんがこうしたフェノメノン・予兆を察知してしかるべきサバイバルを生き抜く心構えをもつというのはわれわれにできるせめてもの策であります。
ここで詳説された大構造の力学がまずもって根底ではらたいていて、今記事で言う「言葉のチカラ・論理の力」の弱体化をもたらす遠因として端を発しているのではないでしょうか。

話は変わりますが、生まれた時からのデジタルネーティブであるZ世代の諸氏の方にはすでに当たり前だと言われてしまうかもしれませんが情報化社会の高度化というものが与える影響というものにも今さらながら驚嘆させられます。
情報がタダ同然で溢れかえっているというこの現実、たしかにこれが進むと複製拡散可能な情報の価値は相対的に低くなっていき不変装置としての人物・物理事物の稀少性というのが一段上がってくる格好になります。
言葉の価値自体は低下しているわけではありませんが信頼性の担保として発信者のパーソナリティ素性の認知はより重要になってきています。
発信スタイルの選択肢も広がってきました。動画や音声での伝達はより個人の肌感覚が反映される言外の情報を豊かにもっておりそこに本質が宿っている様相を呈しています。
これは逆転現象です。私は論旨としてロジックこそ第一であり人と論は分けて考えるべきだという見解を示してきたわけですがネット社会では価値・論旨の相対化というのが恐ろしいスピードで収斂してしまいまるでそれは記号の操作演算の所産程度の価値しか持たなくなってきているのです。
あらゆる論は何と対立するのかの含みや言論上での座標軸はどこなのかというのがたちどころに明らかにされてすぐに相対化されてしまいますし
価格.comやトリバゴのようにサービス・販売物は総じて横並びにまな板へのせられて徹底的に比較・吟味されて完結する社会というのは画一的なプロダクト社会をおしすすめていく烙印付与の宮殿としての機能しか持たない
…この意味するところは論理や存在意義というのは個人にとっての物語においては"出口"にしか過ぎず、展開深化の"入口"はもっぱら言語化できない属人的範疇がその役割を負っているということなのであります。

属人的範疇と言いましたが「個人」の力が増してきたというのでありません。
個人は分断されてきています。
大きな物語の喪失…そこには共感できる共有ベースがもはや成り立たないことのあらわれであります。
種粒的立ち回りを強要されることによる分断もあります。あなたは何者?という質問に答えるためにティピカルな自己像を喜々として作り上げる風潮も私はあまり好きではありません。
最近、「ブログはオワコン」などと言われているようなのではありますが、その対策として「SEO順位を上げたいのであれば雑記ブログではなく特化ブログを目指せ」などと言われる始末です。
個人が先頭によって立つのではなく読者の問題解決であるとかニーズ掘り出しを最優先すべしという読者ファーストの視点が盛んに叫ばれます。
何だか個人は置いてきぼりで、目に見えない欲望や規範という概念だけが可視化されているのに過ぎないのではないでしょうか。
これまでの話と矛盾するようなのではありますが、
論やロジックを先行させたい→論は発信者の人的属性と不可分→でも目に見えない圧で分断されている
という結論になってしまいました。これこそレトリックの陰謀論であります。レトリックは可視化できますが、単体では存在できず、俗物的「エーテル」との結びつきの中でしか相互作用できない。
…暫定的ではありますがちょっと偏向的ながらも歯がゆい現状認識となってしまいました。

レトリックが個人に属するものかどうかは
論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)/香西 秀信
の第四章「人と論とは別ではない」で深く掘り下げられています。
内容についてはここでは割愛しますが筆者は最初の私と同じく論理的思考では、ただ発話の内容のみが問題となり発話者は発話をなすための中身のない記号、装置にすぎないという見方を一方では見せながらも、
P9.
論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者にはそんなものはいらない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない。
(引用終わり)
のっけからこのくだりをはじめとしてロジックの無力さを畳みかけてくるのですがこれがいちいち当てはまっているためもっともだと認めざるを得ないのですが
語り口は至って論理的であり論理を失ったわれわれが最後にすがれるのは「論より詭弁」なのだとして、テクニックとしてのレトリック(詭弁)をもっと活用しよう言う趣旨で書かれています。

言葉の力の先行きは一体どうなってしまうのでしょうか?
本稿ではその答えを見つけることはできなかったのですがここで取り上げた2冊の本が深い示唆を与えてくれたことに感謝したいと思います。

最後に思わぬ長文になってしまったのでこの記事を書く上で念頭に置いたトピック、文中のトピックなどについてエピローグ的に列挙しておこうと思います。
自分の道程をあとから確認しやすくしておくために…備忘録的箇条書きであります。


・ロジハラ
・論破ブーム
・ポストモダン
・生得的社会
・読解力の低下
・強い言葉のインフレ
・ググるよりタグる
・ブログはオワコンなのか
・サーチエンジンに好かれる文章って
・情報がタダ同然で溢れかえっている
・種粒的立ち回りを強要されることによる分断
・論より詭弁

 

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(※2022/10/5追記)

[リンギミーム集めてみるます。あざざます!](近日投稿予定)文中に
レトリックの陰謀論 - P突堤2(当記事)
への参照があるが この原記事に新たな関連事項として最近見かけた以下の記事が目に留まり
大変感銘を受けたので参考リンクとして追加したいかと思います。

霞が関文学「なぜ恵まれた人間が数少ない社会の成り上がり回路を忌み嫌って閉ざそうとするのか。」霞が関バイオレット先生の魂の叫び 

今記事で問題提起していたことにも深くリンクする「若者の格差の固定化」問題に新たな視点を与えてくれる記事です。
よそ様の記事ではありますが皆様とシェアしてご参考いただければ幸いです。

 


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