旨い処探索同好会

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画家のツブヤキ 014 ウィリツ・オート・ショウ Willits Auto Show

2011年05月30日 15時48分20秒 | 画家のツブヤキ


宇井律のチェンバー・オブ・コマースのウエブ・サイトから借りてきたオート・ショーのポスター。



上下:今回のウイリツ・オート・ショーで最も古そうな車ですが、ちょっと気になる色合いです。 後ろにいる白いプードルとは、お似合いの様ですが、、、





上下:フォード・モデルA,1931年。 メンドシノ・カウンティの郡庁所在地である、愉快屋(Ukiah)
の町で売られ、まだ二人目のオーナーの車だそうです。 ところで、ユカイヤの町の名前は、偶然にも俳句を逆に書かれたものです。 そんな訳で毎年愉快屋では、俳句大会が開かれます。 ユカイヤの意味はインディアンの言葉ですが、英語では「ディープ・バレー」だそうです。





上下:年代も名前も分からない車、なのに何故かアップロードした写真。





「フィフティ・セブン・シェヴィ」('57-Chevy)は、名前のとおりシボレーの1957年型です。
オハイオ州デイトンで画学生のころに乗っていたのが、この車で、黒の4ドアーステーションワゴンでした。 2ドアの「ノーマッド」は、今でも大変人気があります。






インパネは、カスタム・メイドでクローム・メッキがなされていました。



これは、同じ「57-シェービィ」、黄色の2ドアー・セダン。



昔の車は、後ろ姿も綺麗でした。 現代の機能優先のデザインではなかなか取り入れる事が難しい、遊びや無駄があったからでしょうか?



60年代のシェヴォレーでしょうか、キャデラックのテイル・フィンには及びませんが、かなりのモノです。「オット、失礼!」、持ち主の後ろ姿まで写すつもりはありませんでした、全くの偶然です。



ジャグァーのEタイプ、この曲線もなかなかセクシーですね。



70年代のバッド・カー、「ダッジ・チャレンジャー」の後ろ姿、当時はもっと大きな車もあったのでそれ程感じなかったのですが、今見るとその幅の広さに驚く。



上下:クラッシック・カーのホットロッド。 一時はロー・ライダーが流行ったが、今はほとんど見かけなくなった。





「フォー・セール」のサインを付けた車もあった、後で思うに少なくともいくらか値段を見ておけばよかった。



お目当てにしていた「ベーコン、エッグにハッシュド・ブラウン」のブランチは、やってなかったので、早々に切り上げた。 



図書館の前の駐車場に止めてあった新しいダッジの車、こちらの方がアンティックらしい。



帰りに見たオート・ショー会場の公園、外の道を車には目もくれずに過ぎ去って行く自転車の親子が、何故か印象的だった。

隣町の宇井律で催されたオート・ショーは、例年のごとく町のはずれにある図書館と美術館の前にある公園で行われました。 カリフォルニアの財政難で図書館、美術館の多くは職員が職を失うか、ウィリツのようにドアを開けている事自体が難しくなってきている町も少なくありません。

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画家のツブヤキ 013 メモリアル・デイ・ウイークエンド

2011年05月30日 04時20分42秒 | 画家のツブヤキ


サンフランシスコの金門橋からそのままカリフォルニア・ハイウェー101「ワン・オー・ワン」を北へ二時間半程ドライブすると、宇井律(Willits)の町に着く、ウィリツは人口5~6000人程の町で、麗鳶留(Laytonville)から同じHwy101を南に約25マイル、車で30分程の所にある。 もっともこの写真は逆方向ですが、、、



今年は例年になく雨がよく降る、普通5月の終わりのメモリアル・デイの頃には雨季は終わっている。
昨日まで雨が降っていた、今日は晴れているが風は冷たい。 気分転換に隣町、宇井律のオート・ショーに行って来ました。



上下:昔のウィリツの町で実際に使っていたパトカーでしょう、何故かおばあさんが二人乗っていました。
日差しは強かったのですが、風はまだ冷たかったからかも知れません。





これもウィリツの町でつい最近まで使っていた感じのファイァー・トラックです。 消防車より隣にいるおばあさんの方がアンティック。



消防車の右に見えているのが、昔全米にスポーツカーブームを起こした名車ダットサン240Z。



上、中、下:小さな町なので高価で希少価値のある車など無い、やはり土地柄、ピックアップ・トラックの出展が多かった。 我が家のフォードの祖先のようなトラック。







上下:このブルーのフォードV8は、フレア・サイドで我が家のフォードの曾じいさんの感じです。





トラックのドアの下にある踏み台をラニングボードと言って昔のピックアップには、よく見られました。 フォードでは、フレァー・サイドと言い、シェヴォレーは、ステップ・サイドです。





上下:これは、結構珍しいジープのトラックです。 ジープの名前の由来はアメリカ軍備品の種別名から来ている、つまりGeneral Purpose(ゼネラル・パーパス)用の車で頭文字GPを読むとジー・ピーでこれがジープになったと昔どこかで読んだ記憶がある。





上下:フロント・ウィンドーに白い紙が見えるが、あれをチャンとアップで撮っていればこのトラックの年代が分かったであろう。 そこが取材と気分転換の違いです。





上下:こちらも同じジープで、ウィリーと呼ばれるピックアップ。 何故か人形が置かれていた。





アンティック・カーよりも参加者の方がアンティック? なんて言うと叱られそうですね。

5月30日月曜日は、ホリディーでお休みです。アメリカのメモリアル・デイは、5月の最後の週の月曜日で、戦争で祖国の為に亡くなった兵士の記念日です。 忘れがちですが、現在アメリカは依然戦争中です。 全米でこの日から夏の旅行シーズンの始まりとよく言われます。
In the U.S., Memorial Day is always observed on the last Monday in May. The holiday honors members of the military who died in service to their country. Memorial Day marks the unofficial start of the summer travel season.

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芸術鑑賞 010 ルイス・ハイン 続き

2011年05月28日 20時12分55秒 | 芸術鑑賞

In 1930-31 recorded the construction of the Empire State Building which was later published as a book, Men at Work (1932).
ハインは、金銭的に苦労したらしく1930~31年にエンパイアー・ステート・ビルディングの建設現場での危険な記録撮影の仕事を引き受けています。 実際に同じ高さにいる事を想像すると間違いなくチビリそうになるのが、この上下の写真です。 いかに慣れていると言っても、よくまぁこんな所でお昼を食べて一服する気になれるものです。


His works mostly portray working people who slave for modern industry. Empire State Building construction began is 1930 and employed about 3400 people who mostly were immigrants from Europe. ハインの作品の多くは、近代産業の奴隷として働く人々のポートレイトです。エンパイアー・ステート・ビルディングの建設は1930年に始まり3400人を雇用しました、その多くはヨーロッパからの移民達でした。


"Raising the Mast, Empire State Building", 1932. Silver print. (10-1/2 x 13-7/16inches)
Yale University Art Gallery, Gift of Lisa Rosemblum.
「エンパイアー・ステート・ビルディング、旗柱を立てる。」 1932年


"Power house mechanic working on steam pump" 1920.
電力会社のメキャニックがスティーム・ポンプの仕事をしています。


Joseph Severio, peanut vender, age 11 [seen with photographer Hine]. Been pushing a cart 2 years. Out after midnight on May 21, 1910. Ordinarily works 6 hours per day. Works of his own volition. All earnings go to his father. Wilmington, Delaware.
デルウェアのウイルミントンでピーナッツを売る11歳のジョセフ・セヴァリオとハイン。 
彼はもう2年間この仕事をしていて、1910年5月20日には真夜中を過ぎても仕事をしていました。 全ての収益は彼の父親にいきます。


A boy making melon baskets in a basket factory. Evansville, Indiana.
インディアナ州エヴァンスビルのバスケット工場でメロン用のかごを作っている少年。


"If I could tell the story in words, I wouldn't need to lug around a camera." ~Lewis Hine
「もし私が言葉で話を伝えられるなら、カメラを引きずり回す必要はなかった。”と言っています。
ルイス・ハインの功績は、彼の死後にやっと評価し始められました。 ハインは、結果的に彼の写真と出版だけでは十分な収入が得られなかったのでしょう、1940年1月に自宅を手放さなければならず、その11ヶ月後の11月3日に66歳で貧しいなか亡くなったそうです。

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芸術鑑賞 009 ルイス・ハイン

2011年05月28日 11時41分44秒 | 芸術鑑賞

Six-year-old Warren Frakes. Mother said he picked 41 pounds yesterday "And I don't make him pick; he picked some last year." Has about 20 pounds in his bag. Comanche County, Oklahoma.
オクラホマ州の6歳のウォーレン・フレーケスの母親の話では、彼は昨日41ポンドのコットンを収穫したそうです。 収穫した重さで賃金が支払われたのでしょう。 彼の引きずっている袋一杯でどのくらいの重さになるのか気になります。 これらは1908年から1912年に写された写真です。


Michael McNelis, age 8, a newsboy with photographer Hine.
マイケル・マックニール、8歳の新聞売りの少年とハイン。 ルイス・ハインは、カメラを今までに紹介した写真家とは違う使い方をしました。 社会学を学んだハインは、カメラを社会改革の道具としてとらえたのでした。 彼の作品の多くは、当時の子供達の過酷な労働状況を画像を通して伝え、1916年に14歳以下の雇用関係等の子供を守る法律が出来たのは、ハインの写した多くの写真が、大きく寄与しました。


Three boys, one of 13 yrs., two of 14 yrs., picking shade-grown tobacco on Hackett Farm.
The "first picking" necessitates a sitting posture. Buckland, Connecticut.
コネックティカット州のバックランドで13~14歳の少年がタバコ農園で初芽を摘んでいます。


Eight-year-old Jack driving a horse rake. A small boy has difficulty keeping his seat on rough ground and this work is more or less dangerous. Western Massachusetts.
マサチューセッツ州西部で8歳のジャックは、小さな子供にはまだ危険な仕事をしています。


A Bowery bootblack in New York City. ニューヨーク市、バワリーの靴磨きの少年。
ルイス・ハインは、1874年(明治7年)9月26日にウイスコンシン州のオーシコッシで
生まれたと記録にあります。 彼が始めてカメラを買ったのは1903年とありますから、29歳の時です。


Shrimp pickers, including little 8-year-old Max on the right. Biloxi, Mississippi.
シュリンプ・ピッカーズとありますが、エビの皮を取る仕事なのでしょう。 足の踏み台が必要な右端の小さなマックスはまだ8歳です。 ミシシッピー州、バイロクシイ。


Child laborers in glassworks, Indiana. 1908. インディアナ州のガラス工場の子供の労働者。
ハインは、ビルディング・インスペクターとか保険会社から派遣されたとか身分を偽って工場内に入って写真撮影をしたようです。


9 p.m. in an Indiana Glass Works. インディアナ州にあるガラス工場の朝9時の情景。


Addie Card, 12-years, Spinner in North Pownal Cotton Mill, VT. 1910.
ヴァモント州のノース・パウナルにある綿織工場の紡ぎ手、アディー・カード、12歳。
ルイス・ハインは、第一次世界大戦中、赤十字の仕事でヨーロッパの戦中の生活状況などを記録しました。 1919年に戦争の影響を受けたバルカンの子供達の写真集を出版しています。


Some of the young knitters in London Hosiery Mills. London, Tennessee.
テネシー州ロンドンの靴下製造工場で働く若い編み作業員。


View of the Ewen Breaker of the Pennsylvania Coal Co. The dust was so dense at times as to obscure the view. This dust penetrated the utmost recesses of the boys' lungs. South Pittston, Pennsylvania. ペンシルベニア州サウス・ピッツトンの炭鉱。


ハインは、子供の労働に関して次のように語っています。「たぶんあなたは子供労働者の写真にウンザリしているかも知れませんが、みんなも同じです、しかし我々は、行動を起こす時まで、貴方と国中をもっと嫌になるように提案します、そうすれば年少労働者の写真は、過去の事になるでしょう。」
Hine told one audience: "Perhaps you are weary of child labor pictures. Well, so are the rest of us, but we propose to make you and the whole country so sick and tired of the whole business that when the time for action comes, child labor pictures will be records of the past."
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芸術鑑賞 008 ガーチュルード・カセビアー

2011年05月25日 12時58分33秒 | 芸術鑑賞

Gertrude Käsebier. "Miss Evelyn Nesbit", 1902. George Eastman House, Rochester, New York.
ガーチュルード・カセビァーは、20世紀初頭最も影響力のある写真家の一人でした。 彼女の芸術性の高いポートレイトに母性愛の写真、そして力強いインディアンの写真は、単なる映像だけでなくまわりの雰囲気まで一緒に写し込んでいるように感じます。 誰でも簡単に出来ることではありません。


Gertrude Käsebier. "Mother and Child", 1899.  
ガーチュルード・スタントンは、1852年5月18日に現在のアイオワ州デモイで生まれています。
1874年、彼女の22歳の誕生日に、28歳のエドワード・カセビアー(Eduard Käsebier)と結婚し3人の子供を産んでいます。


Gertrude Käsebier. "Yoked and Muzzled - Marriage", 1915.
「もし主人が天国に行ったなら、私は地獄に行きたい・・・」とガーチュルードは、大変強烈に後に語っていますが、社会的、経済的に裕福な家に嫁いだ彼女には、当時離婚は難しい事でした。 この不幸な結婚がインスピレーションになって出来た写真と言われています。
Käsebier later wrote that she was miserable throughout most of her marriage. She said, "If my husband has gone to Heaven, I want to go to Hell. He was terrible…Nothing was ever good enough for him.” At that time divorce was considered scandalous, and the two remained married while living separate lives after 1880.


Gertrude Käsebier. "The Sketch", 1899.
ガーチュルード・カセビァーは、37歳で美術学校に通い始めました。


Gertrude Käsebier. "Indian Chief", 1901.
1889年(明治22年)には、夫の反対を押し切って子供を連れてブルックリンに戻り、プラット・インスティテュート・オブ・アート・アンド・デザイン(Pratt Institute of Art and Design)にフルタイムで学ぶ事になり、写真に興味を持ちます。 その後、ヨーロッパで写真の勉強を続けました。


Gertrude Käsebier. "Portrait of Robert Henri", 1907.
1895年にヨーロッパからブルックリンに戻り、プロ写真家サミエル・リフシェイのアシスタントとして商業写真のノウハウを学びます。


Gertrude Käsebier. "Clarence H. White and Family", 1902.
アルフレッド・スティグリッツが近代写真の父ならば、母と呼ぶにふさわしいのは、ガーチュルード・カセビアーでしょう。 しかしこの夫婦は、写真に対してシュティグリッツの芸術性とカセビアーの商業性と意見の相違があったようです。 1902年にシュティグリッツが始めたフォト・セセッションの創立メンバーだったカセビアーは、1912年にそこを脱会する最初のメンバーになります。


Gertrude Käsebier. "Self-Portrait", platinum print, 1912. George Eastman House, New York.
ガーチュルード・カセビァーは、写真を女性の出来る仕事として普及促進に努力しました。 彼女の影響で、有名プロフェッショナル女性写真家のみならず多くのアマチュア女性写真家が生まれています。 彼女は、1929年に写真活動を全て止めてしまい、1934年10月12日に娘の家で亡くなっています。

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芸術鑑賞 007 ガーチュルード・カセビァー

2011年05月25日 00時08分17秒 | 芸術鑑賞

Gertrude Käsebier. "Blessed Art Thou Among Women", 1903. Photogravure. (23.7 x 14.1cm)
一度見たら忘れない写真は、そう沢山あるモノではない、しかしカセビァーの写真を見るとどれも忘れられない印象を与えられる。 その中でも特にこの写真は静かだが、黒と白の使い方は抜群である。
少女の緊張感と母親の優しさの瞬間をとらえた素晴らしく美しい写真だと思います。。


Gertrude Käsebier. "The Red Man", 1903. Photogravure. (18.4 x 13.6cm)
この写真も影と光とテクスチャーを上手く使っています、それに加えてミステリーなインディアンとその表情は何とも表現しがたい憂いを感じさせられます。 こういった雰囲気をとらえられるのは、やはり女性写真家ならではの感じがします。


Gertrude Käsebier. "The Manger", 1903. Photogravure (21.3 x 15.0cm)
露出、フォーカス、シャッタースピードと限られたカメラのテクニックで、馬小屋を聖域に変えてしまった写真技術は見事だと思います。


Gertrude Käsebier. "Portrait - Mrs. Philip Lydig", 1905. Photogravure (20.6 x 14.7cm)
後ろ姿に横顔のポートレイト写真の発想がニクイですね。 ここでも上手く自然に横顔が引き立つ明暗の使い方をしています。 当時人気のポートレイト写真家だったのも頷けます。


Gertrude Käsebier. "Portrait - Miss Minnie Ashley", 1905. Photogravure (21.5 x 16.7cm)
絵を描いていても同じで人の肌の柔らかさや色つやを表すのは非常に難しいが、暗い部分を大きくして上手に顔や手を引き立たせている。  ところで大きな帽子をかぶった女性が両手に持っているのは何でしょうか?


Gertrude Käsebier. "Happy Days", 1903. Library of Congress, no. USZ62 52445.
早くして父を亡くしたガーチュルード・カセビァーは、両親のいた頃の幸せとのイメージを重ねているのかも知れません。 


Gertrude Käsebier. "The Picture-book", 1905. Photogravure (15.7 x 20.7cm)
母親が手編みをしながら子供に絵本を読ませているのは、イチジクの木の下でしょうか?
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画家のツブヤキ 012 カントリー・リビング

2011年05月21日 09時02分51秒 | 画家のツブヤキ

先週春の長雨で土の具合は、ちょっと水気が多かったが植え付けのタイミングもあるし、もろもろの理由で畑を遂に耕す事にした。 


昨年秋以来裏庭に止めてあったトラクターは、エンジンのオイル・チェンジの時期をもうとっくに過ぎていた。 オイルの交換は、通常エンジンをノーマルな運転温度まで一度上げて交換するのが正しいやり方で、裏庭を4~5分走らせた後、納屋の前にトラクターを止めてフッドを開けてびっくりした。


数年前にはトラックのヒーターのブローアーの中に巣を作っていて撤去するのに大変だった。


今年は、トラクターの中である。 巣はなかなかよく出来ていて、チャンと冷たい風が入って来ないように枯れ葉で丁寧に隙間はふさがれていた。


巣の周りには、エーコーン(acorn)が沢山あった。 もちろんお家は、もぬけのからで元住人の今の様子は分からない。 


この辺りでは野生の動物が結構いてリス系は、グレイ・スコロー、チップ・ムンク、それにグランド・スコローの三種類がいる。


グレイ・スコロー(Gray Squirrel)は、例のしっぽのふさふさとしたリスで大抵木の上にいる。
松ぼっくりから種を食べたり、春には新芽を食べるのでボケなどの庭木は被害にあった。
時々木から下りて来る、我が家には大小四匹の犬がいるので大変な騒ぎになる。 すぐに木の上に逃げるのだが、騒ぎは暫く収まらない。


チップ・マンク(Chipmunk)は、グレイ・スコローの三分の一程の大きさで灰色でなく茶色で黒い筋があり、普通倒れた木の上をよく行ったり来たりしているのを見かける。
動きが素早く注意しないと見過ごしてしまう、チッ、チッとかん高い鳥のような鳴き方をする。
運の悪い家の制作者は、このチップ・ムンクです。


グラウンド・スコロー(Ground Squirrel)は、もじ道理地中に穴を掘って巣を作る。 これはかなりタフなリスで、我が家の野菜も被害を受けたが最近余り見なくなった。 


もし巣があることが分かっていても、ずっとそのままトラクターを使わない訳にはいかないから、やっぱり住人を追い出していただろう。 しかし何とか無事に生きのびていて欲しいと家を勝手に壊して置いて都合のいいことを思ったりしている。
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芸術鑑賞 006 アルフレッド・スティグリッツ 続き

2011年05月17日 10時45分00秒 | 芸術鑑賞

Edward J. Steichen. Alfred Stieglitz, 1907.

アルフレッド・スティグリッツは、なぜか多くの写真家にポートレートの対象とされています。
謎の多い人物と言われがちなスティグリッツをいかにとらえ表現しているかを比べるのも面白いでしょう。


Gertrude Kasebier. Alfred Stieglitz, 1902.
ガーチュード・ケスビァー。「アルフレッド・スティグリッツ」1902年


Frank Eugene. "Alfred Stieglitz", 1907. Platinum print. The Metropolitan Museum of Art.
フランク・ユージーン。「アルフレッド・スティグリッツ」1907年


Edward Steichen. "Alfred Stieglitz and His Daughter Katherine". 1904. Platinum print. MMA.
エドワード・スタイケン。「アルフレッド・スティグリッツと娘のキャサリン」1904年


Alfred Stieglitz. "Katherine", 1905. Photogravure from Camera Work no.12, October 1905.
Permanent collection, International Center of Photography, New York.
アルフレッド・スティグリッツ。「キャサリン」1905年


Edward J. Steichen. Alfred Stieglitz and His Daughter Katherine, 1905 print from 1904 negative.
エドワード・スタイケン。「アルフレッド・スティグリッツと娘のキャサリン」1904年


Alvin Langdon Coburn. Alfred Stieglitz, 1907. 
アルビン・ラングドン・コーバーン。「アルフレッド・スティグリッツ」1907年


Paul Strand. "Stieglitz, Lake George", Summer, 1929.
ポール・ストランド。「スティグリッツ、レーク・ジョージ」1929年夏 
レーク・ジョージは、スティグリッツがとても気に入っていた避暑地です。


Imogen Cunningham. "Alfred Stieglitz at An American Place" 1934 Gelatin silver (24.1x18.5cm)
イモーゲン・カニンガム。「アメリカン・プレースのスティグリッツ」1934年
カニンガムは、上に出た同じ女性写真家のガーチュード・ケスビァーの影響で写真家になりました。


Weegee. "Alfred Stieglitz", 1945. Gelatin silver print, (26.9 x 33.9cm).
ウィージー。「アルフレッド・スティグリッツ」1945年


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe: A Portrait - Head", 1920-22. Gelatin silver developed-out print. Alfred Stieglitz Collection, National Gallery of Art, Washington, D.C.
アルフレッド・スティグリッツ。「ジョージア・オ’キーフのポートレート・頭」1922年
スティグリッツが、ジョージア・オ’キーフの断り無しに彼女の作品を「291」で展示したことがきっかけで1908年に知り合った二人だそうですが、1924年に結婚しています。


Anonymous: "Alfred Stieglitz and Georgia O'Keeffe" 1932, New Haven.
Courtesy of Beinecke Rare Book and Manuscript Library, Yale University Library.
作者不明。「アルフレッド・スティグリッツとジョージア・オ’キーフ」1932年
なかなかいい雰囲気の二人のようですが、写したのはいったい誰でしょう?


Alfred Stieglitz. "From My Window at the Shelton, North", 1931 Gelatin silver print 24.3x19.1cm
アルフレッド・スティグリッツ。「シェルトン・ノースのマイ・ウィンドウより」1931年


Georgia O'Keeffe. "Radiator Building, Night, New York", 1927 Oil on canvas, (121.9 x 76.2cm)
Carl van Vechten Gallery of Fine Arts, Fisk University.
ジョージア・オ’キーフ。「ラディエーター・ビルディング、夜ニューヨーク」1927年 油絵


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe", 1932 Gelatin silver print (9-1/8 x 7-1/4inches).
Gift of Georgia O'Keeffe Foundation.
アルフレッド・スティグリッツ。「ジョージア・オ’キーフ」1932年


Alfred Stieglitz. "From the Shelton Looking North", 1927. Gelatin silver print (11.5 x 8.9cm).
アルフレッド・スティグリッツ。「シェルトンから北を見る」1927年


Georgia O'Keeffe. "New York, Night", 1929. Oil on canvas. (101.6 x 48.3cm).
Collection of the Sheldon Memorial Art Gallery, University of Nebraska Art Galleries.
ジョージア・オ’キーフ。「夜のニューヨーク」1929年 油絵


Dorothy Norman. "Alfred Stieglitz", 1952. Gelatin silver print. (9.5 x 7.4cm)
ドロシー・ノーマン。「アルフレッド・スティグリッツ」1952年

アルフレッド・スティグリッツとドロシー・ノーマンは、どうやらロマンティックな関係にあったようです。 多方面で活躍したスティグリッツは、ロマンスのほうもご多忙だったようです。


Alfred Stieglitz. "View of Brooklyn across the East River from Shelton Hotel", 1931
Gelatin silver print. Alfred Stieglitz Collection, Philadelphia Museum of Art.
アルフレッド・スティグリッツ。「ブルックリンの眺め」1931年


Georgia O'Keeffe. "Pink Dish and Green Leaves." 1928. Pastel on paper. (55.9 x 71.1cm)
ジョージア・オ’キーフ。「ピンクのお皿と緑の葉っぱ」1928年


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe: A Portrait" 1930. Gelatin silver print (19.3 x 24.1cm)
アルフレッド・スティグリッツ。「ジョージア・オ’キーフ:ポートレート」1930年


Georgia O'Keeffe. "Ram's Head, Blue Morning Glory", 1938. Oil on canvas. (20 x 30inches).
ジョージア・オ’キーフ。「雄羊の頭、青の朝顔」1938年


Alfred Stieglitz. "Georgia O'Keeffe: A Portrait-with Cow Skull", 1931 Gelatin silver print.
Alfred Stieglitz Collection, National Gallery of Art. Washington D.C.
アルフレッド・スティグリッツ。「牛の頭骨とのポートレート」1931年


Alfred Stieglitz (January 1, 1864 - July 13, 1946) 82歳。
写真をこよなく愛したアルフレッド・スティグリッツは、今のデジタル時代の現状を何と思うでしょうか? 世界中で動画カメラをほとんどの人が携帯し、イメージをあっという間にみんなで共有出来るなんて、まさに想定外の事に違いありません.
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芸術鑑賞 005 アルフレッド・スティグリッツ

2011年05月16日 11時08分03秒 | 芸術鑑賞

Alfred Stieglitz, "Self-Portrait", 1907. Gelatin silver print, (24.8 x 18.4cm).

近代写真の父とも言われるアルフレッド・スティーグリッツは、 写真の歴史上重要な人物です。
ただ一人のアーティストの力で出来た訳ではないでしょうが、もしフランスでナダールが写真を芸術の域まで高めたと言うならば、アメリカではアルフレッド・スティグレイツだと思います。


Alfred Stieglitz. "Miss S.R.", 1904. Photogravure from Camera Work 1905.
Permanent Collection, The International Center of Photography, New York.


スティグリッツは、両親の母国であるドイツに留学中カメラと出会います。 当時のドイツは、物理光学のカメラ、現像科学とも最先端にあった国だったようです。


Alfred Stieglitz. "Sun Rays - Paula", Berlin, 1889. Platinum print.
Alfred Stieglitz Collection, National Gallery of Art, Washington D.C.
アルフレッド・スティグレイツ。「サン・レイズ ポーラ」、1889年 ベルリン。
スティグリッツは、父親のリクエストで1890年にドイツからニューヨークに帰って来ました。


Alfred Stieglitz, "Winter - Fifth Avenue", 1893. Photogravure from Camera Work, 1905.
Permanent Collection, The International Center of Photography, New York.
アルフレッド・スティグレイツ。「ウィンター フィフス・アヴェニュー」、1893年ニューヨーク。


Alfred Stieglitz. "The Terminal", 1915 photogravure from an 1893 negative.
アルフレッド・スティグレイツ。 「ターミナル」、1915年。 (25.4 x 33.5cm).
古い郵便局前で出くわしたサード・アヴェニュー・ストリート・レイル・ウエイとマディソン・アヴェニュー・カー・システムの終着駅での写真、とても寒い雪の日に水をかけられて湯気の出ている馬を見てなんとなく、センティメンタルになっているスティグリッツのようです。
"I found myself in front of the old Post Office. The Third Avenue street rail way and the Madison Avenue car systems had their terminals there, opposite the old Astor House. It was extremely cold, Snow lay on the ground. A driver in a rubber coat was watering his seaming car horses. How fortunate the horses seemed, having a human being to tend them.... The steaming horses being watered on a cold winter day, the snow-covered streets....my own sense of loneliness in my own country," Stieglitz reminisced about a picture.


Alfred Stieglitz. "The Hand of Man", 1930 gelatin silver print from a 1902 negative. (8.3 x 11.2cm)
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・ハンド・オブ・マン」、1902年。ニューヨーク。


Alfred Stieglitz. "The Steerage", 1915 photogravure from a 1907 negative. (32.1 x 25.7cm).
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・スティーリッジ」(三等船室)
一等船室のデッキの端から偶然見下ろしたシーンに暫く魅了されようです。 我にかえり急いで部屋にカメラを取りに行き最後の一枚で写したそうです。
"The scene fascinated me: a round straw hat, the funnel leaning left, the stair way leaning right. the white drawbridge, its railings made of chain, white suspenders crossed on the back of a man below, circular iron machinery, a mast that cut into the sky, completing a triangle. I stood spellbound for a while."


Alfred Stieglitz. "The City of Ambition", 1910.
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・シティ・オボ・アンビション」、1910年
ヨーロッパから戻ってきたスティグリッツは、ニューヨークの近代化に目を見張った事でしょう。 この写真からは、当時の大都会の息吹が感じられそうな気がします。


Clarence White and Alfred Stieglitz, "Miss Thompson", 1907.
クレァレンス・ホワイトとアルフレッド・スティグレイツ、「ミス・トンプソン」、1907年
当時の写真家の多くは、絵画風の写真を制作していました。 スティグリッツは、写真を絵画の模倣から離れ写真独自の芸術性を主張したのです。


Alfred Stieglitz., "The Little Galleries of the Photo-Secession", 1905.
Photogravure from Camera Work no 14, April 1906. The International Center of Photography.
アルフレッド・スティグレイツ。「ザ・リトル・ギャラリー・オブ・フォトーセセッション」
この画廊は、1905年にエドワード・スタイケンと始めた写真、前衛芸術専門のギャラリーで、
ニューヨーク五番街291番地の住所から単に「291」として知られています。
スティグリッツによれば、当時一年リースで、月々50ドル、改築に350ドルかかったそうですから、やはりニューヨーク、小さいと言っても決して安くはなかったのでしょう。

"I liked the idea, being eager that New York should see both what we were doing and outstanding prints from other countries, hung in suitable manner and surroundings. Since I knew I rely on Steichen's enthusiasm and ability, I signed a one year lease for the rooms at fifty dollars a month. The cost of installing electric fixtures and having the necessary carpentry done was no more than three hundred dollars", Stieglitz later recalled that the idea for a Photo-Secession exhibition gallery came from Steichen on night in 1905.


Edward Steichen. "Alfred Stieglitz at 291", 1915
Coated gum bichromate over platinum print. (28.8 x 24.2cm).
エドワード・スタイケン。「291のアルフレッド・スティグレイツ」、1915年


Alfred Stieglitz. "Equivalent", 1930. Gelatin silver print. (12 x 9.1cm).
One of a sequence of ten cloud photographs, later called Clouds in Ten Movements and Music.
アルフレッド・スティグレイツ。「イクィーヴァレント」、1930年。 1922年から始めた10枚の雲の写真シリーズの一枚。
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始めて訪問の方へ: Read me first

2011年05月12日 10時59分43秒 | 初めての方へ

"Untitled-1", 2010. (未完成。)

Welcome to「旨い処探索同好会」、ようこそいらっしゃいました!

国吉康雄のニューヨーク、ウィットニー美術館での回顧展カタログの翻訳は終わりました。
「読書 その一 ヤスオ・クニヨシ」から「読書 その七十 糸へんに冬」です。
最初のページ(下記にリンク)からご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/pacleaf/e/65edcbf8dce5a4a01393d2ef8de30615

絵画鑑賞では、芸術鑑賞シリーズとして20世紀初頭の写真家の作品を紹介しています。
「芸術鑑賞 001 アルフレッド・アイゼンシュタッド」からです。
http://blog.goo.ne.jp/pacleaf/e/3d55dd49e38144e8a2d755546b62ab66

岡山の「旨い処」は、「オカグル」に頼っています。
http://blog.goo.ne.jp/pacleaf/c/9968e07337f1ea69e68509ea6e780962

放射線被曝関係は、「画家のツブヤキ 011 急性症状と晩発性障害と閾値」
http://blog.goo.ne.jp/pacleaf/c/85d487ac138eac1dd3afa5c3f2b885e9

今後の予定では、1940年にクニヨシが、マガジン・オブ・アートに寄稿した原文の翻訳を
そのうち始めたいと思っています。
http://blog.goo.ne.jp/pacleaf/e/159d517e09b8e667fdac02dbcd970ee5


"Untitled-2", 2010, (未完成)

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芸術鑑賞 004 マン・レイ 続き

2011年05月07日 23時43分38秒 | 芸術鑑賞


今回は思った以上に手間取った、マン・レイはマルセル・デュシャンの友達で、シュールやコンセプチュアル・アートは、昔から私の好きなエリアなので簡単に出来ると思ったのが間違いであった。



マン・レイ自身は、画家として知られたいと言っていたと誰かが書いていたのをどこかで読んだ記憶がある。 しかしマン・レイは、写真家それも実験的造形写真と先進的な感覚の当時としては格段に官能的なヌード写真、ファッション写真で知られていると思う。 それに加えて彫刻、版画、フィルム、コラージュ、アサンブラージュもやっているので、写真家というよりはアーティストと言った方が良いかも知れない、分類学は必要だがアーティストを分類しようとすると無理がある。





コンセプチュアル・アート、パーフォーミング・アートの先駆者でもある、マン・レイに対して同じ画家として思うには、マン・レイは単に表現に使うメディアを広げたに過ぎない。 絵の具と筆の代わりにカメラと印画紙を使って彼のアイデアを視覚化させた制作行為であると思う。



"Assemblage", 1920. Sewing Machine, felt and string. (Length: 57cm)
Property from the Dakis Joannou Collection.
マン・レイのアサンブラージュ、(ミシン、フェルトと糸)、包装アートの走りでしょうか。



"Of course, there will always be those who look only at technique, who ask 'how', while others of a more curious nature will ask 'why'. Personally, I have always preferred inspiration to information", Man Ray
「もちろん、いつもただ技術だけを見て、”どうやって?”と問う人はいるでしょう、でも他のもう少し好奇心のある人は、”なぜ?”と尋ねるでしょう。 個人的には、私はいつでも、”インフォーメーション”よりは、”インスピレーション”を好みます。」とマン・レイは語っています。
シュールレアリストは、こういった感じで言葉を楽しむと言うか語呂合わせと意味の表現が面白い。
この言葉は、テクノロジー先行の現代にもあてはまるのではないでしょうか?



"Dada is artistic free-thinking", Andre Breton
ダダは、芸術的に自由な考え方である。アンドレ・ブルトン(シュールレアリストの詩人)。
「ダダは、あえて無意味な語を選んだもので、第一次大戦中から戦後にかけて、チューリヒからベルリン、ケルン、パリと波及した芸術運動。規制の権威・道徳・習俗・芸術形式の一切を否定し、自発性と偶然性を尊重。意味のない音声詩・コラージュ・オブジェ・フォトモンタージュ・パーフォーマンスなどを生み、何でも芸術になり得ることを証明。」と辞書に書いてあります。



"Object to be Destroyed", 1923 or "Indistractive Object and Perpetual Motif". 1959.
Readymade metronome with photographic eye. 1923. (height: 23cm)
Property from a Private Collection, Paris.
1913年のマルセル・デュシャンのレディメード「バイセクル・ウイール」の影響を受けた作品。
レディメードに関しては後に詳しく書きたいテーマだ。



このマン・レイの作品を見ているとクニヨシと同じリーグで学んだアレキサンダー・カルダーの動く芸術、キネティック・アートでデュシャンの名付けた「モービル」のイメージにつながる。



Man Ray, (August 27, 1890 - November 18, 1976). 86歳

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芸術鑑賞 003 マン・レイ

2011年05月07日 00時29分36秒 | 芸術鑑賞

Man Ray, Book cover "Photographs by Man Ray, 105 Works, 1920-1934).

Man Ray, Emmanuel Rudnitsky, (August 27, 1890 - November 18, 1976).
マン・レイの本名はエマニュエル・ロッドニツキーで、ユダヤ系ロシア人の子として1890年に米国フィラデルフィアに生まれ、7歳の時にニューヨーク、ブルックリンに移ります。 ユダヤ人への人種差別もあって本名からマン・レイに変えていったようです。 
若い頃から才能のあった彼は、1908年に建築の勉強をする奨学金を断って画家の道に進みます。 1915年にクニヨシでおなじみの画廊、ダニエル・ギャラリーで初の個展を開催しています。


Photographed by Man Ray, "Noire at Blanche", 1926.

マン・レイは、大変幅広いメディアで制作活動をし絵画、写真、彫刻、版画、フィルム、コラージュ、アサンブラージュと多彩な作品を残しています。 若い頃の立体主義や表現主義(cubism and expressionism)からの影響は、マルセル・デュシャンに会ってからシュールやダダ(Surrealism and Dadaism)に変わっていきます。 1916年、二人でソサエティ・オブ・インディペンダント・アーティスト(the Society of Independent Artist)を創立し、雑誌ニューヨーク・ダダを出版しました。 しかし当時のニューヨークでダダはさほど受け入れられた訳ではなかったようです。 その間に結婚の失敗もあり、1921年にパリに移ります。



マン・レイは、パリでシュールレアリストとして活躍し写真では、レイヨグラム、モンタージュ、クロッピングやソラリゼーションなどの新しい現像技術を開発しシュールな写真を数多く作りました。 



上下:レイヨグラム(Rayogrammes)は、マン・レイ自身がつけた名前、カメラを使わないで印画紙に直接、物を置いたり、手をかざしたりし光を当てて出来る影と形と光の作品です。





上下:モンタージュは、今日では説明の必要のない言葉ですが当時としては新しい技法でした。







上上下下:クロッピングは、写真編集のテクニックで一部を切り捨て、画像のレイアウト等を調整する。







上下:ソラリゼーション(Solarization)は、ビートルズのサイケデリックなポスターで一躍知られた現像技術で、効果、技法の説明はいろいろあるが、これこそ百読よりは一見です、画像を見て下さい。



マン・レイの創り上げたイメージの多くは、芸術性が高く見る人の心に強烈な印象を与え一度見ると忘れがたい画像です。 彼の作り出す不似合いなヴィジョンや意識的不合理は、私たちの日常の認識に一石を投じた感があり、新しい意識、広い認識の必要性を感じさせられます。 そこが、ダダやシュールの面白くて興味深い処でしょうか?




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美味しい処 「オカグル」

2011年05月03日 20時16分54秒 | 食べ物
毎年1~2回、岡山で一ヶ月程暮らす生活が長く続いている、食べ物に関しては低開発地域に住んでいるので、岡山滞在中は出来るだけ日本の美味しい物をと欲張るのだが、安くて旨い処を短期間で探すことは簡単ではなく何とかしたいと思っていた。 そこで始めたのが、このブログである。 何とか美味しい所を探そうという願いが込められ「旨い処探索同好会」を始めたのであるが、すぐ横道へそれて現在に至っている。



岡山市内の我が家から下駄履きで行ける所にとんかつ屋さんがある。 夫婦でやっている小さな、
レストランというよりは食堂といった感じのお店である。 しょっちゅう行きたいがカロリーが高いのでそうはいかない、我慢して我慢してから行くので余計美味しく感じるのかも知れない。



ある日、このレストランを勧めているウエブ・サイトに出くわした。 「オカグル」、おかやま・
グルメのブログで、私の願いを誰かが現実にしてくれたようなサイトですから驚いてしまいました。
その方のお名前は、もちろん「オカグル編集長」です。



編集は抜群で、分かりやすい写真とレイアウト、必要な情報は上手くまとめられ地図付きです。
今日は何をお昼に、何処でというときのレストラン探しのメニューのようで大変便利だと思います。
「オカグル編集長」には、もちろん無断でリンクがあります。

岡山のグルメ情報:オカグル

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