旨い処探索同好会

アトリエ葉神 公式 ブログ・サイト

翻訳 030 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月28日 10時17分17秒 | 翻訳

Threshing by Adolf Dehn

Throughout these many years of painting I have practiced starting my work from reality stating the facts before me. Then I paint without the object for a certain length of time, combining reality and imagination.

I have often obtained in painting directly from the object that which appears to be real results at the very first shot, but when that does happen, I purposely destroy what I have accomplished and re-do it again and again. In other words that which comes easily I distrust. When I have condensed and simplified sufficiently I know then that I have something more than reality.



これらの長年の制作を通して私は、目の前にある事実を現実としてはっきりさせてから仕事を始める作業をして来ました。 それから私は、そのオブジェクトをある期間見ないで制作し、現実とイマジネーションを複合させます。

私は、最初の一発なのに努力した成果のように見えるオブジェクトから直接絵に度々取り入れていました、でもどうしてもそうなった時は、故意にそこまで出来たものを破壊し、そして何度もやり直します。 言い換えれば私は、簡単に出来るものは疑ってしまいます。 効果的に凝縮と簡素化をした時、そこで私は、現実以上の何かをつかんだと知ります。



訳語感: 
英語を習っている人や、自分で翻訳してみたい人のために出来るだけ使われている英語の単語にそって直訳しているが、内容によっては変な日本語になって意味が分かりにくくなることがある。 そう言う時は、意訳になるしかない。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日誌 047 ホンヤク 翻訳 Translation

2013年02月25日 08時07分37秒 | 日誌


翻訳の専門家でない私のやり方は、先ず英文を読んで何が書かれているか内容を理解する。 その時に文章や文脈から作者のスタイルや考え方を感じ取る。 それをベースとして頭に入れてから英語のセンテンスや単語にそって日本語に変えていく。 丁度良い日本語が思い浮かばないと辞書を引いて、イメージに合いそうな日本語を探す。 そんな具合で今は、国吉康雄の自伝を翻訳している。

そう言えば魯迅が日本語を学んだ理由として、日本語が解れば翻訳を通じて世界の文学に接することが出来るからだと言ったとか聞いたことがある。 私もゲド戦記やハリー・ポッターを英文と翻訳文とを読み比べたことがあるが、内容を伝える意味では正に勝るとも劣らないできばえだと思う。

翻訳に関して面白い記事があったので、要点をまとめてみた。
『翻訳力は国家競争力だ~日本は英語力はないが翻訳で力をつけてノーベル賞受賞者を輩出した 2月5日 カン・チョルグ培材(ペジェ)大日本学科教授

全国民の英語公用化が本当に国家競争力を向上させられるかについて筆者は強い疑問を持っている。
日本人の英語力は思わしくないにもかかわらず経済大国になったのは世界7大不思議の一つと いう笑い話もあるが、いまだに日本の競争力が世界最上位圏を守っているのは事実だ。

日本は明治維新以後、翻訳を通じて大衆に多様な文化を供給し、これが学問の広がりと発達に つながって日本の経済発展を支えてきた。ところが日本でも1870年代から英語共用化論と翻訳の必要性に関する論争があった。

日本の初代 文部省長官だった森有礼(1847~1889)という人物は「日本が独立を守るためには国語を英語にすべき」として英語義務教育を貫徹させたが、結局はこのような主張のため国粋主義者の凶刃に 倒れた。 森有礼と相反する見解を持っていた馬場辰猪(1850~1888)という人物は、日本で英語を共用化すると上流階級と下層階級の間に格差ができて話が通じなくなるという理由で英語共用化論に反対 した。

結局彼の主張が順次力を得ながら日本は翻訳主義を選んだ。これにより日本はあたかもス ポンジが水を吸うように西洋文明を受け入れ、全世界を一つの巨大な教室として数多くの西洋書 籍を大々的に翻訳し始めた。 すなわち英語自体が重要ではなく、西欧の知識が重要で、これを大衆化させるに は翻訳で可能だった。

日本はそれこそ翻訳の洪水に溺れていた時代で筆者は今日、日本が19人というアジア最多ノーベル賞受賞者を輩出した原動力をまさに高度に 累積した翻訳力に求めたい。150年余り前から国家主導の下、数多くの外国文献を翻訳して供給した結果、世界的研究成果に対する接近性が高まったのだ。』



こんな意見もありました。

「日本語の国語辞典の「日本国語大辞典」で50万語ありますが、それに対して英語の語彙数はWebster's Third new International (450,000 words)と日本語の語彙数のほうが多い。 年々新語が増えていきますが日本語と英語の競争になっている。 いわば造語競争ですが、日本語は漢字やカナやひらがなを使った言葉が無限大にある。 英語はアルファベットしかなく27文字では数学的な限界がある。 カン・チョルグ教授が言うように、日本語には翻訳能力や造語力があり、英語がどんなにリードしても日本語に翻訳されてしまうから遅れる事はない。むしろ日本語を英語に訳す時に該当する英語が無い場合の方が遥かに多いだろう。これは科学技術分野でも同じ事が言えるのではないだろうか?」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 029 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月21日 09時52分41秒 | 翻訳

Early Rising by Lauren Ford

In 1925 and again in 1928 after my pictures had begun to sell we went abroad. There I admired and studied the old masters and traveled widely to see them. I was impressed by French contemporaries, especially for their keen understanding of their medium. I was excited about the things I saw, but in spite of persuasion on the part of Pascin and several others to stay longer in France, I was terribly glad to get back to New York. I found much to admire in French painters. There were so many little artists here, so few real painters. There they had so many painters.

The trip proved a great stimulus, enlarging my scope and vision. Almost everybody on the other side was painting directly from the object, something I hadn't done all these years. It was rather difficult to change my approach since up to then I had painted almost entirely from imagination and my memories of the past.



私の絵が売れ始めたてから、我々は1925年(大正14)と1928年(昭和3)に海外へ行きました。
そこでは私は、巨匠の作品に驚嘆し勉強して、それらを観るため広範囲に旅行しました。 私は、フランスの現代作家、特に彼らの素材に対する鋭敏な理解には、感銘しました。 見るものに興奮していました、パスキンと数人にフランスに長く滞在するよう説得されたにもかかわらず、私はニューヨークに戻って大変嬉しかったのです。 フランスの画家の中に多くの敬意する点がある事に私は、気がつきました。 ここ(ニューヨーク)には、たくさんの小芸術家がいるけれど、本当の画家は少ない。 そこ(パリ)には、沢山の画家がいました。

旅行は私の先見性と視野を広げるのに、大きな刺激だったことを立証しました。 向こう側では、私はこれまでやったことの無い、殆どの画家がオブジェクトをみて直接描いていました。 それまで私は、殆ど全てイマジネーションや過去の思いでから描いていたので、どちらかと言うとアプローチを変えることは結構大変でした。



訳後記:
レイトンビルの朝は、最近ずっと氷点下以下の気温が続いている。 アトリエの側にあるマドロン・グローブの北側部分は、まだ雪がとけないで白く残っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 028 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月19日 14時07分44秒 | 翻訳

Morris Canter by Yasuo Kuniyoshi

Frequent exhibitions in themselves were not sufficiently remunerative, so I had to turn to something more substantial to keep me going. I don't know why but I chose photography as a way of earning a living. I bought a regular studio camera and practiced taking pictures by using my own canvases as models. Photography agreed with me for I learned quickly and in between painting I received commissions from friends and galleries for photographing sculpture and paintings. The winters were spent in this fashion and in the summer I devoted my time to painting in Ogunquit.



度々の展覧会それ自体は、十分な報酬にはなりませんでした、そこで私は、やっていくためには何かもっと実質的な事を始めなければなりませんでした。 どうしてか解りませんが私は、写真を生活の糧の方法に選びました。 私は普通のスタジオ・カメラを購入しました、そして私自身の絵を使って写真を撮って練習しました。 写真は、わたしに合いました、短時間で学び、絵を描くあいまに友達や画廊の彫刻や絵画を撮影して手数料を受け取りました。 冬はこうしたやり方で過ごし、夏にはオガンクイットで制作に専念しました。



訳語感:
昨日の夜遅くというか正確には今朝早くかもしれないが、その頃は雨が降ったり止んだりであったが、朝もう一度起きると雪が積もって回りは真っ白になっていた、久しぶりだ。 一時は雪で、ネットにワイヤーレスでつながらなくなったが、午後には日が射して雪はとけ始めた。

残念ながら第二次大戦が始まると、クニヨシのカメラは没収されてしまいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 027 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月18日 10時29分47秒 | 翻訳

Lincoln by Boardman Robinson

Following that I turned to babies. People think that babies are beautiful, but I thought otherwise and so I painted babies and babies.

Many one-man exhibitions followed this one. As a matter of fact I conscientiously had a show every year for about eight years at the Daniel Gallery but I mention the initial one because it was a high spot in my career.



牛の次に私は赤ん坊に向きました。 人々は赤ちゃんが美しいと思っています、でも私は違うように思いました、それで赤ちゃんばっかり描きました。

この個展の後も数多くの個展が続きました。 実はダニエル画廊で約八年間、毎年真面目に展覧会を開きました、最初の個展についてふれたのは、それが私の経歴の中で高い処に位置づけられたからです。



訳語感:
ちょいと普通の人と感覚が違う点、非常に上手い表現をしていますが、私の考えでは、要するに牛や赤ん坊は、美くしいと思っていないからと言うか、それ以上のものを感じ取っていて、だから牛や赤ん坊の絵をたくさん描き続けたと言っている様に思います。 クニヨシは、沢山の婦人像や裸婦を描いていますが、同じ感覚だったのでしょうか? 彼の絵を見ると、何となくそんな気がします。

今日は、2月18日月曜日、プレジデンツ・デーなのでトップの画像を変更。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 026 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月15日 09時25分32秒 | 翻訳

Escaped Bull by Jon Corbino

Daniel was very encouraging and he showed two of my paintings in his gallery in 1921. A thrilling experience, for it was my first opportunity in a real gallery. The next year I had a one-man show.

I came through the show unscathed except for the astonishing assumption that I was a humorist. I wasn't trying to be funny but everyone thought I was. I was painting cows at that time because somehow I felt very near to the cow. Besides I thought I understood the animal. You see I was born, judging by the Japanese calendar, in a "cow year." According to legend I believed my fate to be guided, more or less, by the bovine kingdom. Also I was interested in the cow because I thought it decorative as well as ugly and so I painted cows constantly until I was exhausted.



ダニエルは、1921年(大正10年)に、彼の画廊で私の二つの作品を展示し、随分励ましてくれました。 それは私にとって本物の画廊での最初の機会で、スリル満点の経験でした。 翌年には、個展を開きました。

私が、ユーモアのある人と言うビックリするような仮定をされた事以外は、個展は無事に終わりました。 私は、面白くしようとしたのではないのですが、誰もがそう思いました。 その時私は、牛を描いていました、何故ならどう言う訳か牛を身近に感じたからです。 それに加えて私は牛を理解していると思っていました。 私は、日本の暦の審判で、丑年生まれなのです。 私の信じている言い伝えによると私の運命は、多かれ少なかれ、牛王国によって導かれているのです。 そしてそのうえ私は牛に興味がありました、何故なら牛は華やかでいて醜いと思いました、だから疲れ果てるまで絶えず牛を描いたのです。



訳語感:
クニヨシは、丑年生まれだったのですね。 昔の人は丑年生まれの人はこうで、寅年生まれの人はああだとよく言っていましたが、明治生まれのクニヨシもその話は聞かされて育ったのでしょう。

ここでクニヨシが否定している事、私はヒューモリストではないと言っているのですが、周りは勝手にそのように決めています。 困った事に、こういった間違った評論はよくあることです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 025 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月13日 10時16分59秒 | 翻訳

Mother by John Sloan

From now on painting was my whole life. I met Hamilton Easter Field and he offered me a place to stay in Ogunquit, Maine, during the summer so that I could work, and an apartment in Brooklyn for the winter. My second summer in Ogunquit I married Katherine Schmidt. The Niles Spencers and ourselves spent many a warm evening talking about Cézanne and modern painting.

By this time I was out of school and anxious to show my work. The only two places I knew of where a young painter, whose work was in the modern idiom, could have an exhibition was at the Montross and Daniel Galleries.



その頃から絵を描くことが、私の全てになりました。 ハミルトン・イースター・フィールドに出会い彼は、私が絵を描けるように夏の間にはメイン州オガンクイットに滞在する場所を、冬にはニューヨークのアパートを、提供してくれました。 二年目の夏にキャサリン・シュミットと結婚しました。 ニールス・スペンサー家族と私達は、暖かい夕暮れ頃に、よくセザンヌや現代絵画について語り合って過ごしました。

私は、この頃までには学校を出ていて、作品の展示を切望していました。 現代的表現形式の作品を制作する若い画家が展覧会を開けるのは、モントロスとダニエル画廊の、唯二つの場所しか私は知りませんでした。
 


訳後記:
オーティス・レディングのヒットソング、「ドック・オブ・ザ・ベイ」が、ギターで弾けるようになった。 今度はラビン・スプーンフル(The Lovin' Spoonful)のデイドリーム(Daydream)と、ドゥービー・ブラザーズ(Doobie Brothers)のロングトレイン・ラニング(Long Train Running)を練習している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 024 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月11日 17時04分56秒 | 翻訳

Young Girl by Alexander Brook

Around this time Louis Bouche introduced Alexander Brook and myself to the Penguin Club. I was terribly excited to be asked to show my work there along with such artists as Kuhn, Weber, Pascin and several other noteworthy painters. This small but fertile group helped to establish the roots of contemporary American painting. Considered rebels of their time they waged a vigorous battle against conservatism with might and humor. We knew how to play and enjoy ourselves in those days.



丁度この頃ルイス・ボーチェが、アレキサンダー・ブルックと私をペンギン・クラブに紹介してくれました。 私は、カーン、ウィーバー、パスキンや他幾人かの注目すべき画家達と一緒に、ペンギン・クラブで私の作品を展示することにとても興奮していました。 この小さくも想像力に富むグループが、今日のアメリカ絵画のルーツの設立を促進したのです。 この時期の反抗者達と重視されていた彼らは、大きな力とユーモアで保守主義に対向して激しい闘争をしかけていました。 当時の我々は、遊びや楽しみ方をよく知っていました。



訳後記:
今回の「ヤング・ガール」は、クニヨシの最もクロースだった学友のアレキサンダー・ブルックの作品です。 前回の「タットゥー、ヘァーカット、シェイヴ」も、やはり同じクニヨシの学友リージナルド・マーシの作品です。 ところで、このエッチングの中の指笛を吹いている松葉杖の男に気がつきましたか? 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 023 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月08日 11時16分09秒 | 翻訳

Tattoo--Haircut--Shave by Reginald Marsh

This was a period of cultural activity in which I made every effort to absorb the life around me. I went to concerts religiously, although I must confess that I never understood the masterpieces I heard and still don't.

I was drawn into these activities through my association with the students at the League. Among them I made fast friends with Alexander Brook, Peggy Bacon, Henry Schnakenberg, Katherine Schmidt, Reginald Marsh, Edmund Duffy and Arnold Blanche.



この頃は、私の周りの生き方を吸収するため、出来るだけの努力をした教養的活動の時期でした。 私は信仰するようにコンサートに行きました、それにもかかわらず私が聞いた名曲を理解したことはないと打ち明けなければなりませんし、いまだに解りません。

私は、リーグでの学生達との交際により、こう言った活動に惹かれていきました。 中でもアレクサンダー・ブルック、ペギー・ベーコン、ヘンリー・シャナケンバーグ、キャサリン・シュミット、リージナルド・マーシ、エドモンド・ダフィー、やアーノルド・ブランチとすぐに友達になりました。




クニヨシのリーグでの学友へのリンク:読書 その三十七 フロク3―上、中、下 学友

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 022 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月07日 07時19分58秒 | 翻訳

Women Shopping by Kenneth Hayes Miller

I had a great hunger for friends and companionship as a natural reaction, from my lonely wanderings. At the League I found warmth and kindness which I sorely needed. Kenneth Hayes Miller was very friendly toward me, even though it took me a long time to understand him. It was he who changed my outlook on art and I began to have a direction and motive, whereas before that I had had none. It was then that I began to see and study the old masters. I can remember very distinctly his introducing me to Daumier's drawings, and my trying to grasp their full meaning and significance.



私は、孤独な放浪からの自然な反動として友達や交際に大変渇望していました。 リーグで私にひどく必要だった、思いやりや優しさを見つけたのです。 ケニス・ヘイズ・ミラーを理解するのに私には時間が掛かりましたが、彼は私に、とても優しくしてくれました。 私の芸術に対する態度を変えたのは彼でした、そして私が以前は持ち合わせていなかった、方向性と動機を持ち始めたのです。 その時から昔の巨匠の作品を観て勉強を始めました。 彼によってドーミエの素描画を紹介されたこと、そのドローイングの持つ全ての意味合いや重要性をとらえようとした私の試みを大変明確に覚えています。



訳後感:
アメリカ・モダニズムの動きが活発になり、保守革新の争いと変革のニューヨーク美術界でクニヨシもやっと自分に合った学校と友達を見つける事が出来た様です。

ドーミエーに関してのリンク:読書 その二十二、フロク・2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 021 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月06日 08時17分33秒 | 翻訳

The Line Storm by John Steuart Curry

Nevertheless I was still restless and when I changed schools by going to the Art Students League all my classmates thought I was "going to the dogs." Up to then I hadn't made any friends, whether out of shyness or the small feeling of a stranger. At the League my life began to take on a real meaning. Heretofore things came and went aimlessly, from one stage to another, moving from day to day not knowing where the wind would take me next.



それにもかかわらず、私はまだ落ち着きませんでした、そしてアート・ステューデント・リーグに学校を変えたとき、クラスメートみんなは、「質が落ちる」と思っていました。 人見知りのせいか、チョットしたよそ者感覚でしょうか、私はそれまで友達を作りませんでした。 リーグでは私の人生は本来の意味を持ち始めました。 これまでは、一つのステージから別のステージに、日々移動し風が次に何処へ私を連れて行くのか知らないまま、目標もなく過ぎて行きました。



訳後記:
丁度このブログ更新をやっているとき、今朝のラジオでアラスカに漂着した、東北地震で海に流れ出されたゴミのニュースをやっていた。 小さな発泡スチロールの粒や石油、灯油、洗剤、薬品などの入った小さな容器などの漂着物がアラスカの長い海岸線や島のビーチに貯まり始めており、撤去するのは大変で、ある意味では以前に起きたタンカーからの油の流失より悪い影響を環境に及ぼすかもしれないと言っていた。 小さな地球は一つだけ、みんなで大切にしなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 020 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月05日 09時57分24秒 | 翻訳

Negro Band by Waldo Peirce

Homer Boss was the sole instructor of the school and I rubbed elbows with Stuart Davis and A.S. Baylinson. I thought that these men were already doing accomplished work. For the first time I began to feel at home.



ホーマー・ボスが学校では唯一人の先生で、スティワート・デーヴィスやエー・エス・バイリンソンと肘を付け合わせ勉強しました。 彼らはすでに熟達した作品を作っていると私は思っていました。
この頃初めて、私は家庭的雰囲気を感じ始めました。



訳後感:
インディペンデント・スクールでのクニヨシの学友達の作品へのリンク:
http://blog.goo.ne.jp/pacleaf/e/6c101c8cf89d406b5ab542f499aae4ca

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 019 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月04日 10時12分12秒 | 翻訳

Carousel Horse by Yasuo Kuniyoshi

I was lost in the shuffle for a couple of year and then joined the Independent School, where everybody was talking about the Armory Show. Cubism was in the air. The Nude Descending a Staircase was creating a furore. Reproductions of van Gogh, Gauguin, and the masters of the late nineteenth century filled the walls of the school. I was caught up this excitement without really understanding what it was all about.



私は二年間程の改変の中で、自身を見失っていました、それからインディペンデント・スクールに加わり、そこではみんながアーモリー・ショウについて話していました。  キュービズムのことで、いっぱいでした。「階段を降りる裸婦像」は、熱狂的興奮を作り上げていました。 ヴァン・ゴッホやゴーガン、それに19世紀後半の巨匠達の複製が、学校の壁を埋め尽くしていました。 私は、何のことか本当に解らないままこの興奮に巻き込まれていました。 



訳後感:
アーモリー・ショウが当時のアメリカの美術界に与えた影響は、歴史に見るとうりであるが、その真っ直中にいた人達にとっては大きなエキサイトメントを体験しているわけで、特に美術の勉強を始めたばかりのクニヨシには、新しい芸術のうねりを理解するのは難しかったはずです。 しかしその事を正直に書いている点で、彼の誠実さを伺い知る事が出来ると思います。

「階段を降りる裸婦像」へのリンク:画家のツブヤキ 029 レディーメード その-10
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日誌 046 スモッグ、Smog

2013年02月02日 14時53分29秒 | 日誌


岡山の友人が山陽新聞の切り抜きをpdfファイルにしてメールで送ってくれたので、 jpgファイルにしてブログに載せた。 私自身、つい最近まで国吉に関して何も知らなかったので、まだ多くの人が同じではないかと思っていたが、さすが岡山では事情が違うようだ。 



相変わらず寒い朝が続いているレイトンビルである。 ここのところ話題は日曜日に開かれるスーパー・ボールのことで持ちきりだ。 久しぶりの地元サンフランシスコ・フォーティーナイナースが出場するからである。



昨日の夜遅くアトリエから母屋に帰る途中、おぼろ月の写真をとったのだが、霧の水滴が大きかったのか、薪ストーブの煙と混ざったのか、今までにない現象が起きた。 何枚かフォーカスを変えて写してみたが、何とも不思議な写真が写っていた。



そこで頭に浮かんだのが、最近話題になっている中国のスモッグのこと。 報道で知るのみだが、かなり酷いようである。 100年以上も前に産業革命の影響を受けたロンドンの街が、ピースープ・フォッグ(pea soup fog)と呼ばれる煙と霧で悩まされた頃に、スモッグはスモークとフォッグを合わせて出来た語。 モネが描いた当時のロンドンの風景画にも影響していたとは、気がつかなかった。



自動車の排気ガスが主な原因で発生したロスの光化学現象スモッグが、近い記憶に残るところだ。
ロスやメキシコ・シティーは、温度の異なる空気の層が街の上空を蓋をしたように覆うので起こる。
サンフランシスコ・ベイエリアも同じで、空気の悪いときは薄茶の層のスモッグが見える。



中国で発生した発癌性物質を含むスモッグは、いずれ日本に流されて来るだろう。 歴史を鑑みて中国政府に改善を求めるのは、内政干渉には当たらないと思うのだが。



しかし、何故こんな写真になったのか解らない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする