Edward Steichen, "Brooklyn Bridge", 1903. New York.
ニューヨークに戻ったスタイケンは、アルフレッド・スティグリッツの紹介でニューヨーク・カメラ・クラブのメンバーになり、5番街の291番地に小さなスタジオを見つけプロのポートレイト・フォトグラファーとして仕事を始めました。
Edward Steichen, "The Big White Cloud", 1903. Lake George, New York.
スティグリッツ家の古い友人でドイツ人肖像画家のフェドル・エンコ(Fedor Encko)が、J.P.モーガン(モーガン財閥の創始者)の正式な肖像画の依頼を受け制作を始めたのですが、J.P.モーガン自身、画家の前で落ち着いて座っていないし、座っても時間が少なくなかなか制作が進まないでいました。 困ったエンコは、スティグリッツに写真家を探して欲しいと頼みます。 そこでお鉢が回ってきたのがスタイケンでした、そしてエンコの為に二枚とスタイケン自身の為の一枚の合計三枚を撮影することで合意しました。
Edward Steichen, "J. P. Morgan", 1903. New York.
撮影の日、スタイケンはジャニターに頼んで準備した椅子に座ってもらいピント合わせも終えて用意周到で待っていると、エンコに案内されてやって来たモーガンは大きな帽子を脱いで、長い葉巻をテーブルの端に起き、さっきまでジャニターが座っていた椅子にドッカと座ると、何も言わないでエンコの前でとるいつものポーズをしました。
すぐにエンコの為の二枚を取り終えたスタイケンは、自分自身の一枚の為にモーガンに今までと違うポーズを勧めました。 そしてモーガン自身が頭の位置を決めた後、いらついた声で"Uncomfortable"と言うので、自然に感じる位置にするように勧めると何度か頭を動かして"Uncomfortable"と言ったときと同じ位置に戻しました。 しかしそこには画家の前で習慣的にポーズをしていた時の顔はなく、彼の表情はシャープになり姿勢は緊張し、先ほどのいらつきのせいかモーガンのダイナミックな自己主張を感じました。 そこでフィルムの入ったプレート・ホールダーをカメラから取り出しながら"Thank you, Mr. Morgan"と言うとモーガンは"Is that all?"というので、スタイケンは"Yes, sir."と答えました。 モーガンは帽子を頭に葉巻を手にあっという間にエレベーターに向かっていました。
モーガンがスタジオにいたトータル・タイムは、三分間でした。
撮影中はモーガンの目に注意がいって気がつかなかったが、現像をしてみると鼻が異常に大きく歪な形をしているのに気がつき、迷ったスタイケンはモーガンの以前の写真を調べると、どれも大きく修正をしていたので、エンケに頼まれた二枚は可能な限りレタッチして、三枚目は鼻を少しぼかす程度でほとんど手を加えず、後日モーガンのところへ持っていきました。 案の条、修正した二枚は気に入ってくれましたが三枚目は"Terrible"といってモーガンが破ってしまいました。
頭に来たスタイケンは、長い時間をかけて修正を重ね遂に数年後に高い値段でモーガンに買い上げてもらった作品が、上の写真です。 この写真は後に、"dagger"(短刀)を持たせることでモーガンの真の性格を表したとも言われたりもしますが、彼は単に椅子の肘掛けを握っていただけです。
Edward Steichen, "Trinity Church", 1904 New York. Platinum print.
ミルウォーキーにいる頃に、自然の写真は木の枝や葉を撮影するよりは、その瞬間のムードや表情を捕らえる事の方が重要だと気がついた様に、ポートレイト写真では人々がカメラを意識したポーズではなく、モーガンが表した様な純粋な反応を目覚めさせる事が重要だと気がついたスタイケンは、後に雑誌ヴァニティ・フェアーで毎日の様にポートレイト写真を撮るときの為の貴重なレッスンになりました。
Edward Steichen, "The Flatiron Building-Evening", 1905. New York.
Platinum and ferroprussiate print.
スタイケンは、写真の評判と口コミで仕事も順調になり、少し大きなスタジオをまかなえる様になります。 丁度その頃、隣の293番地に広いスペースが空きます。 アメリカの道は合理的に表示されていて、一般的にアヴェニューは南北、ストリートは東西に走り、番地は道の片方が奇数の番号であれば反対側の番地は全て偶数で、1-ブロックが100番単位になっています。 だから291番地から293番地に移ると行っても同じビル内でホール・ウェイもエレベーターも同じでした。
291の方は続きの小さな後ろの二部屋も同時に空いたので、フォト・セセッションの為の画廊としてもってこいのスペースでした。 最初は写真だけでは一年中運営出来ないと難色を示すシュティグリッツをロダンのドローイングやヨーロッパの新しい画家の紹介も出来ると説得しました。 そして1905年(明治38年)に発足したフォト・セセッションの小さな画廊は、後に「291」として知られる様になります。
Edward Steichen, "Moonrise - Mamaroneck", 1904. New York. Platinum and ferroprussiate print.
スタイケンは技術的にも色々新しい事を試みていました。 早くからカラー写真にも興味を見せていました。 後に商業写真の分野でも成功するスタイケンですが、写真に関わる全ての分野で熱心に努力研究を続けたからでしょう。
Edward Steichen, "In Memoriam", 1905. New York.
20世紀初頭前後は、まだプロのモデルでもヌードの時は顔を写さないかぼかして欲しいと頼む時代だったそうです。 スタイケンのこのヌード写真はロダンの影響でしょうか、彫刻の様にも見えます。
形体美と共に雰囲気を重視したスタイケンならではの作品だと思います。
Edward Steichen, "The Garden of the Gods", 1906. Colorado. Platinum and gum print.
コロラドで撮影されたこの写真は、「ガーデン・オブ・ザ・ゴッド」と名付けられています。 ガム・プリントとあるので作品にはかなり手を加えていると思います。 しかし当時の交通事情を考えても、スタイケンはかなり幅広い範囲で活動していたように思われます。
(スタイケンが、1904年にニューヨークで撮影したアルフレッド・スティグリッツと娘のキャサリンの写真のリンク)