旨い処探索同好会

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芸術鑑賞 018 エドワード・スタイケン 続き-2

2011年08月30日 18時35分23秒 | 芸術鑑賞

Edward Steichen, "Brooklyn Bridge", 1903. New York.

ニューヨークに戻ったスタイケンは、アルフレッド・スティグリッツの紹介でニューヨーク・カメラ・クラブのメンバーになり、5番街の291番地に小さなスタジオを見つけプロのポートレイト・フォトグラファーとして仕事を始めました。


Edward Steichen, "The Big White Cloud", 1903. Lake George, New York.

スティグリッツ家の古い友人でドイツ人肖像画家のフェドル・エンコ(Fedor Encko)が、J.P.モーガン(モーガン財閥の創始者)の正式な肖像画の依頼を受け制作を始めたのですが、J.P.モーガン自身、画家の前で落ち着いて座っていないし、座っても時間が少なくなかなか制作が進まないでいました。 困ったエンコは、スティグリッツに写真家を探して欲しいと頼みます。 そこでお鉢が回ってきたのがスタイケンでした、そしてエンコの為に二枚とスタイケン自身の為の一枚の合計三枚を撮影することで合意しました。


Edward Steichen, "J. P. Morgan", 1903. New York.

撮影の日、スタイケンはジャニターに頼んで準備した椅子に座ってもらいピント合わせも終えて用意周到で待っていると、エンコに案内されてやって来たモーガンは大きな帽子を脱いで、長い葉巻をテーブルの端に起き、さっきまでジャニターが座っていた椅子にドッカと座ると、何も言わないでエンコの前でとるいつものポーズをしました。

すぐにエンコの為の二枚を取り終えたスタイケンは、自分自身の一枚の為にモーガンに今までと違うポーズを勧めました。 そしてモーガン自身が頭の位置を決めた後、いらついた声で"Uncomfortable"と言うので、自然に感じる位置にするように勧めると何度か頭を動かして"Uncomfortable"と言ったときと同じ位置に戻しました。 しかしそこには画家の前で習慣的にポーズをしていた時の顔はなく、彼の表情はシャープになり姿勢は緊張し、先ほどのいらつきのせいかモーガンのダイナミックな自己主張を感じました。 そこでフィルムの入ったプレート・ホールダーをカメラから取り出しながら"Thank you, Mr. Morgan"と言うとモーガンは"Is that all?"というので、スタイケンは"Yes, sir."と答えました。 モーガンは帽子を頭に葉巻を手にあっという間にエレベーターに向かっていました。
モーガンがスタジオにいたトータル・タイムは、三分間でした。

撮影中はモーガンの目に注意がいって気がつかなかったが、現像をしてみると鼻が異常に大きく歪な形をしているのに気がつき、迷ったスタイケンはモーガンの以前の写真を調べると、どれも大きく修正をしていたので、エンケに頼まれた二枚は可能な限りレタッチして、三枚目は鼻を少しぼかす程度でほとんど手を加えず、後日モーガンのところへ持っていきました。 案の条、修正した二枚は気に入ってくれましたが三枚目は"Terrible"といってモーガンが破ってしまいました。

頭に来たスタイケンは、長い時間をかけて修正を重ね遂に数年後に高い値段でモーガンに買い上げてもらった作品が、上の写真です。 この写真は後に、"dagger"(短刀)を持たせることでモーガンの真の性格を表したとも言われたりもしますが、彼は単に椅子の肘掛けを握っていただけです。


Edward Steichen, "Trinity Church", 1904 New York. Platinum print.

ミルウォーキーにいる頃に、自然の写真は木の枝や葉を撮影するよりは、その瞬間のムードや表情を捕らえる事の方が重要だと気がついた様に、ポートレイト写真では人々がカメラを意識したポーズではなく、モーガンが表した様な純粋な反応を目覚めさせる事が重要だと気がついたスタイケンは、後に雑誌ヴァニティ・フェアーで毎日の様にポートレイト写真を撮るときの為の貴重なレッスンになりました。


Edward Steichen, "The Flatiron Building-Evening", 1905. New York.
Platinum and ferroprussiate print.

スタイケンは、写真の評判と口コミで仕事も順調になり、少し大きなスタジオをまかなえる様になります。 丁度その頃、隣の293番地に広いスペースが空きます。 アメリカの道は合理的に表示されていて、一般的にアヴェニューは南北、ストリートは東西に走り、番地は道の片方が奇数の番号であれば反対側の番地は全て偶数で、1-ブロックが100番単位になっています。 だから291番地から293番地に移ると行っても同じビル内でホール・ウェイもエレベーターも同じでした。 

291の方は続きの小さな後ろの二部屋も同時に空いたので、フォト・セセッションの為の画廊としてもってこいのスペースでした。 最初は写真だけでは一年中運営出来ないと難色を示すシュティグリッツをロダンのドローイングやヨーロッパの新しい画家の紹介も出来ると説得しました。 そして1905年(明治38年)に発足したフォト・セセッションの小さな画廊は、後に「291」として知られる様になります。


Edward Steichen, "Moonrise - Mamaroneck", 1904. New York. Platinum and ferroprussiate print.

スタイケンは技術的にも色々新しい事を試みていました。 早くからカラー写真にも興味を見せていました。 後に商業写真の分野でも成功するスタイケンですが、写真に関わる全ての分野で熱心に努力研究を続けたからでしょう。


Edward Steichen, "In Memoriam", 1905. New York.

20世紀初頭前後は、まだプロのモデルでもヌードの時は顔を写さないかぼかして欲しいと頼む時代だったそうです。 スタイケンのこのヌード写真はロダンの影響でしょうか、彫刻の様にも見えます。
形体美と共に雰囲気を重視したスタイケンならではの作品だと思います。


Edward Steichen, "The Garden of the Gods", 1906. Colorado. Platinum and gum print.

コロラドで撮影されたこの写真は、「ガーデン・オブ・ザ・ゴッド」と名付けられています。 ガム・プリントとあるので作品にはかなり手を加えていると思います。 しかし当時の交通事情を考えても、スタイケンはかなり幅広い範囲で活動していたように思われます。

(スタイケンが、1904年にニューヨークで撮影したアルフレッド・スティグリッツと娘のキャサリンの写真のリンク)
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芸術鑑賞 017 エドワード・スタイケン 続き-1

2011年08月25日 20時53分47秒 | 芸術鑑賞
多くの若者が二十歳前後に人生に大きな影響を与える旅に出る事は、時代を問わず世界中どこでも同じように思われます。 スタイケンの場合それが当時の芸術の都パリへ行くことでした。

スタイケンはミルウォーキー・アート・ステューデント・リーグの学友 Carl Biorncrantz と一緒にニューヨークからフランスのスティーマー(汽船)Champlain の三等客室(steerage)で7~8日間かけて大西洋を渡りました。 現在のSFOとKIX間が11時間以上なので長くて疲れるなんて文句は言えませんね。 スティーレッジと聞くとアルフレッド・スティグリッツのスティーリッジ(The Steerage)の写真を思い出してしまいます。

途中での食事がひどいことを注意されていた二人は、パンとハム、チーズを持ち込んでしのいだそうです。 ここで面白いなと思ったのが、若い二人は自転車を一緒に船に持ち込んだ事です。 
フランスに着いてLe Havreからセーヌ川沿いに春の景色を写真撮影やスケッチをしながらパリまでサイクリングして行きました、なかなか粋なパリへの訪れです。

同じ三等客室で知り合った旅人の紹介で、モンパルナスの屋根裏部屋をすんなりと借りる事ができ、すぐに1900年パリ万博のロダン展示会場に足を運びます。



Edward Steichen, "Solitude - F. Holland Day", 1901. Paris. Platinum print.
パリでは、有名なジュリアン・アカデミー(Julian Academy)で学びますが、彼の好みに合わなく2週間ほどでやめてしまい毎日ルーブルに通ったそうです。 その後ロンドンで F. Holland Dayに会いデイの企画したNew School of American Photography展に出品します。

フレッド・ホーランド・デイ(1864-1933)は、早くから写真の芸術性を唱えた写真家です。 ボストンで移民の子供達に読み書きを教えました、その内の一人が後に予言者(The Prophet)で有名になったレバノン出身の詩人カーリル・ギブラン(Kahlil Gibran)でした。 出版事業にも手がけオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley,1872-1898)のイラストを出版したことでも知られています。 
彼はロンドンの後パリでも写真展を開き、その時はスタイケンの一年近くをかけて仕上げた自画像の作品(下の写真)が話題になりました。



Edward Steichen, "Self Portrait with Brush and Palette", 1901. Paris. Pigment print.
スタイケンが美術学校をやめルーブルに通っていた頃、イタリア・ルネッサンス期のチチアン(Titian)とも呼ばれていた画家ティッツィアーノ・ベェチェッリオ(Tiziano Vecellio)の作品、マン・ウイズ・グローブ(Man with Glove)に興味を感じ、この絵に対する写真家としての答えを出したいと考え約一年をかけて制作した作品です。 デイの服を借り鏡の前でポーズをとって、最初はガム・プリントで始め、それから他の粒子や接着剤とゼラチンを混ぜたりし、そのテクニックを何度も練習して制作したそうです。 これはスタイケンが芸術のみならず写真技術にも研究熱心で努力家、そして強い意志を持っていたことが伺われます。 よく見ると印画紙から色素を筆で洗い落とした後が分かります、何となく写真をベースにした絵画の様でもあります。



Edward Steichen, "Auguste Rodin", 1902. Paris. Platinum print.
1898年、ミルウォーキーの新聞にパリのクラブ(the Society of Men of Letters)が7年前にパリ市の為にロダンに制作を依頼した文豪バルザック(Balzac)の像が完成し、その彫刻に関する賛否両論がパリの街を賑わしている記事がありました。 注文を出したクラブにロダンの作品は拒否されるのですが、ミルウォーキー・ニュースペーパーでその複写を見たスタイケンは、今までに見た最もワンダフルなもので山に生命を吹き込んだように見えたと語っています。 そしてその彫刻を制作したロダンの住む街、パリに興味を持ったのでした。

スタイケンをパリに駆り立てたもう一人のアーティストは、モネ(Claude Monet)でした。 彼がミルウォーキーの公共図書館で読んだモネの本の説明でモネの風景画はアトリエの中でなく実際に風景を前にして描かれていること、そしてモネが風景画の中に光と空気を取り入れたことが書かれていました。 このことはスタイケンがカメラでやりたいと考えていたことと同じだと語っています。

スタイケンはパリでもポートレイト写真を撮っていました。 ある日ノルウェーの風景画家でパリ在住のフリッツ・タウロウ(Fritz Thaulow)の二人の子供の写真の依頼の件でポートフォリオを持って自転車で出かけます。 仕事の話が決まりお昼をご馳走になっているときの会話で、スタイケンがどんなにロダンの彫刻が好きかを話し出来れば会ってみたいと話したところ、なんとタウロウはロダンと親しく、パリ郊外のMeudonにあるロダンの家に、午後二人で自転車で尋ねて行くことになりました。



Edward Steichen, "Rodin - Le Penseur", 1902. Paris. Pigment print.
ロダンの家でローズに迎えられた二人は、ロダンがパリに行ってあいにく不在だが、もうすぐ帰って来ると知らされ庭で待っていると暫くして足早にロダンが戻って来たそうです。 ロダンに誘われ、ワインセラーからのワインと素晴らしい夕食を日本の提灯が吊された木の下で楽しんだのでした。

食事が終わってリキュールとシガーを楽しんでいる時、タウロウがスタイケンにポートフォリを持ってきてはどうかと話します。 ゆっくり時間をかけて見ていたロダンは、スタイケンの肩に手をかけ、
タウロウに「見ろ、情熱はまだ死んではいない」と言ったそうです。 そしていつでも写真を撮りに来てよいとスタイケンに伝えました。

結局、ロダンが普通仕事をしない日曜日の午後に、大理石、ブロンズ、クレイやプラスターで一杯のスタジオに一年通い構想を練ったそうです。 構図が決まるとロダンに「Victor Hugo」を背に「考える人」に向かってもらいました。 広角レンズもなく、大きな作品と材料で一杯のスタジオでの撮影には限度を感じ、技術的に不安はあったものの後に合成することで出来た作品だそうです。

スタイケンの"Rodin - Le Penseur"と名付けられたこの1902年の作品は、ロダンと彼の彫刻の偉大さを見事に表現した素晴らしい写真で深く記憶に残るイメージです。 しかしどうしてロダンなのだろうと不思議に思っていましたが、それが可能になったのは、スタイケンの情熱がロダンに伝わったからだと分かりました。

この写真を見たロダンは大変喜んでみんなに見せたそうです。 スタイケンは、これらはロダンの写真ではなくロダンへの写真だと語っています。

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芸術鑑賞 016 エドワード・スタイケン

2011年08月21日 13時58分32秒 | 芸術鑑賞


Edward Steichen "The Spiral Shell", 1921. France.
このスパイラル・シェルの写真は、1963年に84歳のエドワード・スタイケンが出版した本(A Life in Photograph)の表紙に使われています。 多分スタイケン自身の一番のお気に入りの一つだと思います。 エドワード・ウェストンの光をすき通す様な繊細で優雅な貝の写真は英語の単語"fragile"がピッタリ合いそうですが、スタイケンの硬くて重そうな貝はまるで南部鉄びんのようで貝の持つ時間の重みまで含めて表現されているように感じます。



Edward Steichen、"To my mother Marie Kemp Steichen, 1854-1933, with homage, gratitude, respect, admiration, and love."
エドワード・スタイケンは、彼の母親からの影響が強くあったと彼自身語っています。 スタイケンの家族は彼がまだ3歳の時、若いスタイケンを自由で平等そして好機の土地で育てようと、ルクセンブルグから1881年アメリカに移ってきます。 



Edward Steichen、"Self Portrait", 1898. Milwaukee. Platinum print.
スタイケンの父親は、ミシガン州ハンコックの銅山で働いていましたが健康を害し母親がMillinery Shopを開いて生計をたてます。 ミリネリイ(millinery)と言う耳慣れリい単語が出てきたので辞書を引くと、やや古語らしく婦人帽子類(販売製造業)とあった。 1889年に一家はウィスコンシン州ミルウォーキーに移ります。 (ビールの世界三大生産地「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー」と言う昔の宣伝文句を思い出した、語呂合わせがよいのでツイ覚えてしまっていた。)



Edward Steichen, "Self Portrait with Sister" 1900. Milwaukee. Platinum print.
スタイケンが15歳の時に学校を止めリソグラフ工房(American Fine Art Company of Milwaukee)で4年間の実習生(Lithography apprenticeship)になり、会社の近くにあったフレンドリイなカメラ・ショップでスタイケンが16歳の時に初めてお金を母親からもらって中古のカメラを手に入れました。 最初のロール・フィルム50枚の中、写っていたのはたった一枚だけでした。 スタイケンはそのことに関して父親は絶望的でしたが、妹のリリアン(Lilian)がピアノに向かったその一枚の写真はとても素晴らしく49枚失敗の価値があると母親は褒めてくれたとふり返っています。 この写真のオシャレな帽子もお母さんの手作りでしょう。 同じく1896年にミルウォーキー・アート・スチューデント・リーグ(Milwaukee Art Students League)を発足、創始者の一人でリーグのプレジデントになりました。



Gertrude Kasebier, "Portrait of Edward Steichen Wearing an Overcoat and Gloves", 1901.
Platinum print. The Museum of Modern Art, New York. Gift of Knox Burger.
ティーン・エージャーのスタイケンは写真が創り上げるイメージにおいて光の重要性に気がついていました、黄昏時(たそがれどき、Twilight)の与える不思議なムード、そして常に変化し続ける光とそのミステリーな影の作り出す感情的なもの、場所、事物、人の本質が与える感情を写真の目標にした、気がつかない印象派と語っています。 1899年にスタイケンの作品が初めてフィラデルフィアの写真サロンで展示さ、1900年(明治33年)には、アメリカの市民権を得て3年後にクララ・スミス(Clara Smith)と結婚し二人の娘キャサリン(Katherine)とメアリー(Mary)がいます。



Edward Steichen, "The Little Round Mirror", 1901.(printed 1905)
当時はソフト・フォーカスの絵画風写真が主流でしたが、タイトルがなければ見逃してしまいそうな「小さな丸い鏡」、最初の自画像の写真にも小さな長方形の額縁が壁に掛けてありました。 この繊細な感覚でのバランスと構図がスタイケンの写真の魅力の一つのように思えます。
彼は三脚の足を揺らしてカメラを振動させたり、レンズを水で濡らしてボカシをだしたりして撮影段階での工夫のみならず現像の段階でもシルバーとプラチナ・ペーパー以外にも印画紙のコーティングの素材を変えてみたりして色々と工夫を続けた様です。



Alfred Stieglitz Collection, 1907. Platinum print. The Metropolitan Museum of Art. New York.
"Frank Eugene, Stieglitz, Kuehn, and Steichen Admiring the Work of Eugene".
リソ・ショップで4年間続いた研修期間が終わり収入も悪くないときにヨーロッパ行きを決意します。
見習い期間を終えたスタイケンは、週50ドルの収入があったそうですから当時としてはかなりの高給でしょう。 ヨーロッパ行きを家族に話すと父親はクレイジーだと思いますが母親が旅費を援助して21歳を迎えた数週間後にリーグの友人とパリに出発します。
1900年にスタイケンは、ニューヨーク経由でパリにいきますが、その時にクリアレンス・ホワイトの紹介でアルフレッド・スティグリッツにニューヨークで会っています。 スティグリッツは、盗んでいるようで申し訳ないといいながら一枚5ドルで三枚スタイケンの写真を買ってくれました。 スタイケンはパリに行くけれど写真は続けるとスティグリッツに約束したのです。
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日記 006 ノヨ・シアター Noyo Theatre

2011年08月14日 23時04分15秒 | 日誌


ここ数週間ゴミ出しやら整理と片付けばかりやってるようなので気分転換にをしようと言うことで
隣町のウイリツのノヨ・シアターで上映中の "Rise of the Planet of the Apes" を観てきた。
ノヨ・シアターは町唯一で昔ながらの古い映画館、週末だけではあるがマティネーはいまだに5ドル50セントの入場料である。 週末のこの時間は大抵すいていて多くて10人前後の人で貸しきりのような感じで悪くないが、スクリーンはとても小さいし音もさほどよくない。



1968年のフランクリン・シャフナー監督の "Planet of the Apes"(猿の惑星)は、フランス人のピエール・ブール (Pierre Boulle) によるSF小説「La Planete des Singes」に基づいた映画で、チャールトン・ヘストンの主演で話題になった映画で面白かった。 2001年のティム・バートン監督の「猿の惑星」はプレビューを観たときにDVDが出たらレンタルで観ようと思っていて結局まだ観ていない。



今回はルパート・ワイヤット監督で "Rise of the Planet of the Apes" (猿の惑星:創世記)は、昔住んで居たサン・フランシスコが舞台なので楽しめた。
オリジナルの「猿の惑星」は、下記のように結構続編が多かったのでこのCGを使ったシリーズも続きがありそうだ。 日本では10月7日からとあった。

Official Trailer-YouTube Site (ティーザー・リンク)

猿の惑星 Planet of the Apes (1968)
続・猿の惑星 Beneath the Planet of the Apes (1970)
新・猿の惑星 Escape from the Planet of the Apes (1971)
猿の惑星・征服 Conquest of the Planet of the Apes (1972)
最後の猿の惑星 Battle for the Planet of the Apes (1973)
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画家のツブヤキ 015 ありがとう by いきものがかり

2011年08月12日 03時56分17秒 | 画家のツブヤキ


最近なぜか古いギターを出してきて弦を張り直し練習を始めた、何十年ぶりなので複雑なコードなどは全く忘れてしまっている。 ビートルズ、PPM、ボブ・ディランの音楽と一緒に成長した世代で、彼らの曲は友達と一緒によく歌ったものだった。 チェット・アトキンスやウエス・モンゴメリーそれにケニー・ボレロのギターが好きで彼らのように弾けたらと夢のような事を願ったこともあった。

今年は例年春の岡山滞在を諸々の理由で見送ったので、本や雑誌などを日本から送ってもらった。
普通EMSだと4~5日で届くが、書物は結構重く船便にしたので一ヶ月以上かかった。 荷物の中の一つは、NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」のテーマ・ソングの楽譜でした。



チーフ・プロデューサー谷口卓敬は以前から「いきものがかり」の曲がお気に入りで「ゲゲゲの女房」の主題歌は最初から彼らにと決めていたそうです、テレビドラマの音楽も映画音楽と一緒で、物語とピッタリあった音楽は印象深く心に残る気がします。 Jポップスと言うジャンルの曲は字幕の助けがないと何を歌っているのか分からない世代だが、なかなかこの歌の詩は気に入った。

「神がかり」の発想で「いきものがかり」なんて面白い名前のグループだなと思っていたけれど、ユニットの名前の由来は、金魚に餌をあげる「いきものがかり」をしていたからだそうです。

いきものがかり: 水野良樹(みずの・よしき)・ギター&リーダー、 吉岡聖恵(よしおか・きよえ)・ボーカル、 山下穂高(やました・ほたか)ギター&ハーモニカ。
ありがとう: 作詞、作曲、水野良樹
ホーム・ページ: http://ikimonogakari.com/



ゴミやジャンクが増えてきたので片付けや整理整頓に費やす時間を多くしている、その一環でギターが出てきたのだから片付けているのか散らかしているのか分からない。 忘れかけていた昔のドローイングも出てきたので一部をスキャンしてみた。 1994年と一枚にあった17年前のスケッチであるが、他の作品も日付はないがその前後の作品だと思う。


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