あるサイトで「自分のために仏教を学ぶ人が多いのは残念」と書かれているのを目にした。確かに仏教では、自分のためではなく他のためにということが大事なことなんだろう。
でも、それこそ儂らのような凡夫が最初からそんなことができるわけがない。もし、誰もが最初から自分のためではなく他のために学ばなくてはならないとしたら、仏教は滅びるんじゃね?と思った。最初は自分のためでも、そのうちそれだけではなくなるように精進していく、そのために勉強を続けていくんじゃないのかなと、儂は考えてる。
まあ、それとておいそれとはできることじゃないけど。でも、できないから続ける、できるようになるまで続ける、儂はそう思ってる。
自分以外のことって、自分が平穏な時はわりと考えられるんだけど、そうじゃないとかなり難しい。どうしても自分のことが優先になる。これが実感。
それともう一つ、仏教を勉強していったい自分の何が変わるのか、あるいは何を変えたいのか、そこがはっきりしていないと、どんなに仏教についての知識を学んでも、かえって苦しくなるだけじゃないかなと、最近ちょっと感じてる。
仏教では執著を捨てることが大事と言われてるけど、仏教そのものにさえ執著してはいけないとある本で読んだ。これ、その通りだなと感じることも少なくない。
それでも、やっぱりここにある通りかなと。
《ブッダの言葉》
— 仏の教えwords of wisdom (@namutyan) January 12, 2024
怒りを捨てるように慢心を捨て去るように
一切の執着に打ち勝つように
心と身体に執着しない
無一物の人には苦悩は現れない
悩みはいろいろある
悩みをなくす練習を
まず怒らないことが
悩みをなくす第一歩ですpic.twitter.com/U8ClPbYZnG
昨日母親と電話していて怒ってしまった。その後、施設の人達にもちょっと迷惑をかけて申し訳なかった。
きょろちゃんは希望の光だったんだけど、昨日は久しぶりにご飯の時におかしくなった。しおちゃんはアップダウンの波が大き過ぎる。そして、らぷちゃんはまだ生きてるけど、もうそれほど長くないと思う。
そんなこんなで心の重しがどんどん積み重なってる。でも、こういうことがずっと続いて麻痺し始めてるのか、少~しだけ達観(?)に近づいたかなと感じないでもない。特に昨日、母親との電話で怒ってからそんな感じがしてる。達観というよりも、もうどうでもいいというあきらめの境地か。まあそれでもいいのかも。。。
まだまだまったく精進が足りないどころか精進してないんだけど、もしかしたらうちのはちゅ達は儂の精進の題材になってるのかな。もしそうだとしたら,
あの子達に申し訳なさ過ぎる。
あの子達はそんなこと考えもしないだろう。でも、これ、考えられないんじゃなくて、考える必要がないからじゃないのかな。
人間以外の衆生って、命をもらったその瞬間から、迷いのない世界、つまり真理の中で生きてるんじゃないのかな。迷いを離れて悟りはなく、悟りを離れて迷いはないんだから。
なにより、こんな七面倒臭いことを考えてるのは人間だけ。
昨年思ったのですが、亡くなった方って当たり前だけど力が抜けて仏像さまのようなきれいな顔をされているのを見ることが多いです。空の世界にいるのかなって思いました。いまの世界では情報も便利さも欲もたくさんあってお釈迦様の言葉を理解するには環境が違いすぎてかなり難しいんじゃないかなって思いました🤔
あと生きているうちは欲が顔にでていてるなって🤔脳外にいた頃は、手術後の方はきれいな表情だけど、回復とともに欲が顔にでてきていました。わがままだったり執着だったりいろいろな欲です。
人間以外の生き物たちがかわいいのは欲がないからなんだろうなーって思いました。
自分でも、心がずいぶん疲れてるなと感じます。
重しが重過ぎなんです。
気分転換しても、すぐにいろんなことが起きるので、ほとんど役に立たないんですよねえ。
そうですね、ほとんどの人は命が亡くなるまで悟ることはできないと思います。
生きてる間は、すべての煩悩を消し去ることなんて絶対にできないですよね。
>人間以外の生き物たちがかわいいのは欲がないからなんだろうなーって思いました。
これ、その通りだと思います。
人間以外の生き物には迷いも煩悩もないんですよ。
ただその一瞬一瞬を一生懸命に生きてるだけだと思います。
つまり、これこそがお釈迦様の言われてることなんだと思うんです。
記事にも書いたように、だから動物には悟りなんてないんです。
人間はわざわざ修行して悟るなんていうことをしなければならない。
つまり、やっぱりあらゆる動物の中で一番愚かなのは人間なんじゃないかと思います。
飼い主の状態が良くないとペットに伝わっちゃいますよ。レオパトリオと触れ合うときは無理矢理でもテンションあげてください😃挨拶はいやっほぉおーぅ。とかわっしょい!って。私はしないですけど🙂
本来ならば元気をくれる子たちだから元気と愛情を返してあげてください。もらったら+α返しです。らぷちゃんの調子がわるいならひたすら愛情をあげてください。そんなときに飼い主の疲れた様子を見せたらだめです🙂
あと、違った解釈がこわいので書いておきます🫢レオパちゃんたちの不調とパパさんの不調はリンクしていません。パパさんにそんな不調の影響を与える力はないですもん。
すべてその通りだと思います。
わかってはいるんですけどねえ。。。
多分、レオパ達のことだけだったら、また少し違ってるのかなと思います。
それと、こんなに続かなければ、これまた違う展開になってたかなと思います。
まあ、今の救いは、ほとんどのことが今のところはパラレルじゃなくてだたいシーケンシャルに起きてるということですかね。
ただ、シーケンシャルの間がないのが辛いですけど(-_-;)
いつも本当にどうもありがとうございます。
m(_ _)m
m(_ _)m
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執著、シーケンシャル…ふむふむ…とまず?と思った言葉を調べるところから入りました〜(^O^;)勉強になりま〜す!
…っていう感じで『学び』ってやっぱりパパさんの言うようにまず自分とっかかりが多いですよね?私はそうですけど…自分に引っかからないものは調べようとか、まずそこがスタートしないです(^_^;)
なんとも思わない事には悩まないし、なんでも自分スタートです。あぁ、これはまだ未熟な証拠ですか〜(;´∀`)?
難しいものなのですね…
そうですね、勉強はなんでも自分の興味や疑問や好奇心なんかから始まるんだと思います。
仏教は、例えば利他とか同事とか、自分も他人もないということが大事なんだと思います。
今は確かに、自分の辛さや悩みを少しでも解決したり和らげるために仏教の勉強を始める人が多いのかもしれません。
もちろん私もそうです。
でも、それはダメだと言われてしまうと、もうそこで終わってしまいます。
時間をかけて少しずつ学んで精進を積み重ねていくうちに、自も他も区別のない考えができるようになり、さらには自分のことはおいておいても他を優先できるようになるのかと思っています。
かなり遠い道のりではありますが(^^;
仏さまの目から見れば、人間はみな未熟だと思います。
だからこそ精進するんですから。