左と右は違う・・
ということは、知識、概念としては、もう骨身に沁みついていると思っていたのですが、
実際の使い方といえば、まだまだ長年培ってきた、「左右対称」の感覚から抜け切れていなかったことに気付かされることも多いです。
「人は周囲の形状に惑わされますから」
というのは、昔、音楽家講座での甲野先生の言葉。
椅子に腰かける時も、その椅子の平な面に腰をべったりと乗せてしまったりする。
一見左右対称に見える身体を使う時も、同様のことが起きているのだろう。
これは、はっきりした理由がある訳ではなく、あくまでも、経験上からの感覚ですが、
「左は閉じて右が開く」
というのが、私にとっての左右差。
ごくごく少しの例外はあるにせよ、
フルートも、ギターも、ヴァイオリン族も、筝も・・
一見、縦に構えるので、左右対称的なイメージのあるオーボエやクラリネットも、きっと同じだと考えている。
殆どの楽器の構え方は、これに準じている。
そして・・
一見、左右対称に見えるピアノ。
鍵盤は縦横垂直の線が連なり、おまけに堅そう。
こんなものの前に腰かけたら、思わず、その視覚的影響で、身体も左右対称、へたすると、腰かける姿勢も直角にしたくなってしまうのが、性というものだろう。
最近は、流石に、こんなガジガジな姿勢を推奨することもないとは思うけれど・・
以外に、結構、この感覚というのは根深い。
こうした、身体が分断されるような姿勢だからこそ、ハイフィンガー奏法が生まれてきたのかもしれません。・・指でがんばるしかないから・・
これって、腹と口でがんばるしかない派の管楽器奏法にも通じているかも。
身体というのは、とても頭がよくて親切だから、
「これじゃあ音が出ないから出るようにしてやらないと・・」
と、色々なその時々の「間に合わせ」を勝手にやってくれる。
だからこそ、音も出る。
けれど、それはとても疲労するし、部分に負荷をかけるので、身体を痛めることにも繋がる。
若い頃はなんとかしのげても、加齢に伴い、その負荷に耐えられなくなり、それがよりメンタルの緊張も生み、本番でこける。そこでようやく「あれ?」と気付く。
はい。20年前、40代の頃の私のことです。
・・・・・
先日、ピアニストにご助言していて、はっとした。
ほんの少し、椅子の向きを変えて、身体をずらしただけで、また丸めた麻の布巾を使って左右の腰の高さをかえてみただけで、「痛めていた右肩の痛みがなくなった!?」と、とても驚き喜ばれ、むしろ、こちらが驚きました。
音ももちろん変化。
ピアニストがピアノに向かう時間というのは、フルーティストのおそらく何倍にもなると思う。
姿勢まで硬いピアノに影響され、四角四面的にするのが、「普通」になっているのかもしれません。
しかしながら、昔の文献を読むと、実はこうした左右差に関連するような事が書いてあるので、面白い。
300年前のクープランによる『クラヴサン奏法』
クープランは「そんなつもりではないよ」
と言うかもしれないけれど、今のところ他に思い当たる理由を私は考え付くことができません。
よく、チェンバロと今のグランドピアノではキィの重さが全然違う、という意見も聞かれ、もちろん、それはそうだ、とは思うけれど、次に浮かぶ疑問は
「じゃあ、何故、バッハはその息子たちや弟子たちに教える時、また自身が練習する時にクラヴィコードを使っていて、それで事足りたのか?」
ということです。
小さく、繊細な、とても軽い鍵盤のクラヴィコード。
質素な四角い箱のような鍵盤楽器。
当時は殆どがチェンバロで、出始めたクリストフォリのピアノもまだまだ今のものに比べれば、軽い鍵盤だったとはいえ、じゃあパイプオルガンは?
バッハが現代のフルコンのグランドピアノが弾けない、とは到底思えない。
むしろ、バッハだったら、どのような音を出すのだろうか?と夢想します。
みな、それぞれ、個性も鍵盤の重さも異なる楽器に対応できる奏法だった、ということでしか説明がつかない、と思う。
ということは、知識、概念としては、もう骨身に沁みついていると思っていたのですが、
実際の使い方といえば、まだまだ長年培ってきた、「左右対称」の感覚から抜け切れていなかったことに気付かされることも多いです。
「人は周囲の形状に惑わされますから」
というのは、昔、音楽家講座での甲野先生の言葉。
椅子に腰かける時も、その椅子の平な面に腰をべったりと乗せてしまったりする。
一見左右対称に見える身体を使う時も、同様のことが起きているのだろう。
これは、はっきりした理由がある訳ではなく、あくまでも、経験上からの感覚ですが、
「左は閉じて右が開く」
というのが、私にとっての左右差。
ごくごく少しの例外はあるにせよ、
フルートも、ギターも、ヴァイオリン族も、筝も・・
一見、縦に構えるので、左右対称的なイメージのあるオーボエやクラリネットも、きっと同じだと考えている。
殆どの楽器の構え方は、これに準じている。
そして・・
一見、左右対称に見えるピアノ。
鍵盤は縦横垂直の線が連なり、おまけに堅そう。
こんなものの前に腰かけたら、思わず、その視覚的影響で、身体も左右対称、へたすると、腰かける姿勢も直角にしたくなってしまうのが、性というものだろう。
最近は、流石に、こんなガジガジな姿勢を推奨することもないとは思うけれど・・
以外に、結構、この感覚というのは根深い。
こうした、身体が分断されるような姿勢だからこそ、ハイフィンガー奏法が生まれてきたのかもしれません。・・指でがんばるしかないから・・
これって、腹と口でがんばるしかない派の管楽器奏法にも通じているかも。
身体というのは、とても頭がよくて親切だから、
「これじゃあ音が出ないから出るようにしてやらないと・・」
と、色々なその時々の「間に合わせ」を勝手にやってくれる。
だからこそ、音も出る。
けれど、それはとても疲労するし、部分に負荷をかけるので、身体を痛めることにも繋がる。
若い頃はなんとかしのげても、加齢に伴い、その負荷に耐えられなくなり、それがよりメンタルの緊張も生み、本番でこける。そこでようやく「あれ?」と気付く。
はい。20年前、40代の頃の私のことです。
・・・・・
先日、ピアニストにご助言していて、はっとした。
ほんの少し、椅子の向きを変えて、身体をずらしただけで、また丸めた麻の布巾を使って左右の腰の高さをかえてみただけで、「痛めていた右肩の痛みがなくなった!?」と、とても驚き喜ばれ、むしろ、こちらが驚きました。
音ももちろん変化。
ピアニストがピアノに向かう時間というのは、フルーティストのおそらく何倍にもなると思う。
姿勢まで硬いピアノに影響され、四角四面的にするのが、「普通」になっているのかもしれません。
しかしながら、昔の文献を読むと、実はこうした左右差に関連するような事が書いてあるので、面白い。
300年前のクープランによる『クラヴサン奏法』
クープランは「そんなつもりではないよ」
と言うかもしれないけれど、今のところ他に思い当たる理由を私は考え付くことができません。
よく、チェンバロと今のグランドピアノではキィの重さが全然違う、という意見も聞かれ、もちろん、それはそうだ、とは思うけれど、次に浮かぶ疑問は
「じゃあ、何故、バッハはその息子たちや弟子たちに教える時、また自身が練習する時にクラヴィコードを使っていて、それで事足りたのか?」
ということです。
小さく、繊細な、とても軽い鍵盤のクラヴィコード。
質素な四角い箱のような鍵盤楽器。
当時は殆どがチェンバロで、出始めたクリストフォリのピアノもまだまだ今のものに比べれば、軽い鍵盤だったとはいえ、じゃあパイプオルガンは?
バッハが現代のフルコンのグランドピアノが弾けない、とは到底思えない。
むしろ、バッハだったら、どのような音を出すのだろうか?と夢想します。
みな、それぞれ、個性も鍵盤の重さも異なる楽器に対応できる奏法だった、ということでしか説明がつかない、と思う。