能・『芭蕉』の解説を昨日聞いてから、ずっと江平の笛のことを考えていた。
草木ですら成仏するのを欲しているのだから、増してや楽器となると・・
思えば今更ながら「江平の笛」には気の毒なことをしてきたと思う。
元々、フルート以外の笛にさしたる関心もなかったところに、関根秀樹先生から何故か贈られて、その後、やはり関根先生が、この笛が活躍する場を沢山用意してくださり、あれよあれよと巻き込まれて、という経緯だったこともある。
もちろん、この竹笛で多くの方が喜んでくださるのは嬉しかったし、珍しさもあって、数年は吹いたけれど、やはり、よりロットの響きの追求が面白くなってくると、竹笛まで吹く時間と意欲はどんどんとなくなって行った。
15,6年間、ずっとしまいこまれたまま、一度も息を通してもらえなかった笛。
もし江平の笛の精が現れたら、そりゃあ、もう芭蕉の精どころか、大変な恨みつらみと悲しみを切々と述べたことだろう。
昨年11月6日に岩城先生から、私の江平の笛の演奏を聴いたのがきっかけで、85歳からギターを始めたとうかがい、また江平の笛を聴きたいとリクエストいただき、慌てて、翌日江平の笛を取り出した。
幸い割れなどもなく、ちゃんと音も出た。
フルートの進展に伴って、竹笛もきっと以前より上達しているに違いない、という見込みがあっけなく外れ、酷いものだった。
まあ、以前は今よりも力みも多くがっちり固めて吹いてたしな、と気を取り直して取り組んできたけれど、やはり鳴りが悪く、ずっと違和感が。
なんだか違う、なんだか妙だ・・・という思いのまま5ヶ月が過ぎたけれど、その結果震えまででてきてしまい、これはもうフォーカルジストニア一歩手前、というかもうなってるかも?というくらいのブラックホールに。
そして、本日、改めて江平の笛に謝りながら絹の細い飾り紐の房で中を掃除し、指孔、謡口などもそっと祓ってやったりした。
そしてその時気付いたのは・・・
通常フルートの頭部間のてっぺんはキャップがついて塞がれている。
篠笛や能管、龍笛も、みなそれは同様に塞がれている。
でも、江平の笛の頭にはキャップがない。
節の上一寸程のところで切られた状態そのままだった。
そんなことすら、今頃認識したのか、というお粗末さ・・
そして、その頭の空間にも、絹の柔らかな房をそっと入れてはらったところ、本当にごく僅かではあったのだけれど、ホコリが・・・
もちろん、この埃のせいだけではないのだろうけれど、この後の江平の笛の音はようやく納得のいくものに。
本当に可哀そうなことをしたものです。
それにしても、15年近くもしまわれっぱなしだったのに、この埃以外は、なんともなっていない竹笛。
これは関根秀樹先生の技術の高さの証明でもある。
あとは、先週あたりからだけれど、構え方を大きく変えた。
以前吹いていた時は慣れ親しんだフルートの持ち方のままで竹笛を持っていて、それで別に不都合なことはなかったのだけれど、今回、あまりにヘタになってしまっていたので、篠笛の構え方を真似てみた。幸いなことに、沢山の参考例が動画にあがっている。
改めて感嘆したのは、手の形、指の向きや長さをそのままに使おうとしている日本の文化と発想。
フルートはまずキーシステムありきで、左手の親指も使わねばならず、そのため、色々と無理をさせている。そして、「全ての指を同じように丸めて」という発想。
これはバッハタッチなど、鍵盤楽器における手指の構えにも通じる。
短い親指と小指に揃えるために他の3本の指を丸めて使うというもの。
これはこれで、もちろん一種「手の内」となり、上手く使えれば身体と末端を繋げる役割もある。
それが篠笛の右手は「全て同じに丸めて」ではなくて人差し指と小指は指腹だけれど、中指、薬指は第一関節と第二関節の間。これは、自然に体側に降ろした時の手指の形状に近く力みのないものとなる。
更に左手の親指はキィを押さえる必要もないので、後ろ側に回す事もなく、斜め下から笛を支えるように伸ばし、人差し指、中指、薬指は軽く曲げられて指腹で。
この左手の形状も、指の長さに沿った無理させることのない、自然な形状だ。
フルートの時に使っていた手の内によるテンションは竹笛には強すぎたということもようやく気付いた次第。
野球のボールを投げるのとピンポン玉を投げるのでは、違うよね、という話。
大分、竹笛の軽さに対応できるように。
江平の笛の右手は人差し指と中指しかないので、小指ではなく、のばした薬指を支える指にすることに。左手はもともと小指はない。
とりあえず、今回はこれでやってみようと思う。