《 神示と霊示との区別は その文章に内在する神韻(しんいん)と格調(かくちょう)の
高さにある。その文章と読者に及ぼす結果によって判断されるのである。 》
《 『 果実を見てその樹(き)の善悪を知れ 』 とイエスは言ったが、
神示 か 霊示か 潜在意識の迷妄(めいもう)の産物であるかは
それに触れる人が 如何(いか)に魂を動かされるかの
結果を見て判断するほかはないのである。 》
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霊示と言うのは、ある個性霊魂が霊媒的素質のある人にかかって来て、話し、
筆先(ふでさき)を書き霊言(れいげん)をきかせたりするのであるから、
本人の意識のほかに別人格があらわれた形で其の啓示が出て来るのである。
だからそれは二重人格式(にじゅうじんかくしき)に出て来るのである。・・・
霊示にも最高級のものから低級のものに到るまで無数の段階があるのである。
最高級の段階のものは伝える能作者(のうさしゃ)はある階級の霊魂であるが、
最高級の霊又は神(この辺になると神と最高級の霊との区別はハッキリと人間には
区別出来ぬのである)の意志を受けて、その意志を伝えるのである。・・・
かかる場合には 『 霊 』 が伝える言葉であっても神示である。
形式の問題ではなく内容の問題である。・・・
神示と霊示との区別はその文章に内在する神韻(しんいん)と格調(かくちょう)の
高さにある。その文章と読者に及ぼす結果によって判断されるのである。
例えば 『 汝ら天地一切のものと和解せよ 』 と言う文章位(くらい)は
誰にも書けるのであるが、しかもこの一句に触れるとき
宛(さなが)ら冷水三斗(れいすいさんと)の思いをして
愕然(がくぜん)として 過去の迷夢(めいむ)より覚(さ)むる如(ごと)き人々の多数あるは
人間業(にんげんわざ)の単なる名文では出来難(できがた)いのである。
『 果実を見てその樹(き)の善悪を知れ 』 とイエスは言ったが、
神示 か 霊示か 潜在意識の迷妄(めいもう)の産物であるかは
それに触れる人が 如何(いか)に魂を動かされるかの
結果を見て判断するほかはないのである。
『 生長の家 』 誌 昭和二十六年 七月号
「 神示と霊示との区別 」 谷 口 雅 春 先 生
( 『 新編 生命の實相 』 第 5 巻 所収 編著はしがき より )
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