☆カツハウス☆

すべり知らず?
カツハウスです。

なんで今?

2014-09-18 00:28:29 | ☆カツ日記☆

【島根県は17日、テニスの全米オープン男子シングルスで準優勝となった錦織(にしこり)圭選手=松江市出身=に対し、県民栄誉賞の授与を見送ると発表した。錦織選手の意向を聞いたところ、関係者を通じて辞退の申し出があったためという。】

これってよく考えると失礼な話やね。

たしかに日本人初の準優勝ってすごいけど、タイトルを手にしたわけじゃないし、錦織くんはてっぺん目指してまだまだ頑張ってるわけでね。

本人としても決勝で負けて悔しい思いしてるのにそんな賞もらってもうれしくもなんともないでしょ。

今この賞を贈ろうとしたってことは島根県としては彼は今がピーク、今後これ以上の成績を残せないと思ったからじゃないか、と勘繰ってしまう。

たとえ結果的にそうなったとしても賞を贈るのは引退してからでも全然いいわけだし、もうちょい選手の気持ちを考えてほしいなって。




















最高の1日

2014-09-15 13:24:40 | ☆カツ日記☆

お天気にも恵まれ、無事「FunkyDanceParty」終了。

DJタイムもショウケースもダンス☆マンLIVEもめちゃめちゃ盛り上がったー。

ほんとに最高の1日でした。

感謝感激です。

演者のみなさま、見に来ていただいたみなさま、関係者のみなさまありがとうございました。

今後ともよろしくお願い致します。











オオスズメバチ

2014-09-13 12:31:02 | ☆カツ日記☆


「風の中のマリア」百田尚樹



日本最強の昆虫、オオスズメバチの生態とその帝国の栄枯盛衰を描いた傑作小説。


主人公のマリアはオオスズメバチの帝国に生まれた戦士(ワーカー)。

わずか30日足らずの命を恋もせず、子も産まず、帝国の繁栄のためにひたすら燃やし続ける。

帰還、未帰還とか偵察、戦闘隊形とか「永遠の0」の零戦とだぶってみえるのも百田さんならでは(笑)


持って生まれた宿命、命のはかなさ、子孫繁栄の執念・・・

人間に置き換えられる部分も多く、なかなか考えさせられる作品です。



_______________________________


オオスズメバチ

学名Vespa mandarinia(ヴェスパ・マンダリニア)

スズメバチ亜科の中で最大のスズメバチ。日本、中国など東アジアに分布。

体長は女王バチが45~50ミリ、ワーカー(ハタラキバチ)が25~40ミリ、オスバチが30~45ミリ。

非常に獰猛で攻撃性も攻撃力も極めて高い。

他の昆虫を襲って幼虫のエサにする。

大顎の力は強力で、固い甲虫類の甲殻をも噛み砕くことができる。

また太い針から噴出される毒液は大型の哺乳動物をも殺傷する力がある。

秋の繁殖期にはミツバチや他のスズメバチの巣を集団で襲い、サナギと幼虫を奪い取る。

















黒い羽

2014-09-06 14:04:52 | ☆カツ日記☆


「黒い羽」 誉田哲也


彼得意のサスペンスホラー。

右肩にある瑕に幼い頃から悩まされ続けた主人の女性。

病院を転々とした末にたどり着いた遺伝子治療という選択。

同様の患者とともに人里離れた山奥にある研究施設に向かうのだが、そこには凄まじく危険なナニカがいる・・・


人気漫画「テラフォーマーズ」の世界をすでにこの時点で描いている著者の着眼点の凄さ。

ただ怖いだけでなく障害を持って生まれてきた子供に対する社会的テーマが根底にある初期の名作。


























プライド

2014-09-06 13:06:21 | ☆カツ日記☆

プライドを捨ててゼロから組織に貢献する。

言うだけなら簡単だけどなかなかできることではない。

彼はおそらく、超一流の‘用具係’としてプロ野球界に貢献していくだろう。



___________________________________






サントリーの缶コーヒー「BOSS」のCMに出演し、再び注目を浴びた元プロ野球選手で、現・横浜DeNAベイスターズの用具係・入来祐作(いりきゆうさく・42歳)。



かつてはマウンド上でスポットライトを浴び、輝かしい活躍をしていた男は今、球団の裏方として日々の生活を送っている。



■「これじゃあクビだ」と自分でもわかっていた



「全体練習の4時間くらい前には球場に来て、選手たちの練習の準備をしています」



彼はそう言って、何百球ものボールが入っている大きなカートを何台もグラウンドへと押し出していった。



ボールを出し終わると今度はノック用のバットをロゴマークが見えるようにキレイにそろえてベンチ前に並べ始める。



「(中畑清)監督のバットを一番先頭に置くんです。別にそうしろと言われたわけではないですけど、やっぱり監督のは先頭がいいかなと思って……」



そして、ベンチ横にピッチャーの打撃練習用ヘルメットを右打者用、左打者用とひと目でわかるようにきちんと分けて重ねて置く。それも、それぞれS、M、L、LLとすべてのサイズを用意して。



こうした気遣いは監督やコーチ、選手たちだけでなく、バッティングピッチャーなどの裏方の人間に対しても同じだ。マウンドにはロージンバッグのほかに濡れタオルも準備する。



「ボールって気候によって変わるんですよ。空気が乾いていると滑ったり。それに新しいボールを出したときって、ちょっと湿り気が欲しいこともありますから。



ただ単に道具を用意するだけじゃなくて、選手たちが少しでもやりやすいように工夫してます。僕が用具係という仕事を任されているのは、プロ野球選手としての経験があって、『選手の気持ちがわかるから』ということもあると思うんです」



入来は、高校時代からチームの主力選手として活躍し、社会人野球の本田技研を経て1997年にドラフト1位で巨人に入団。1年目から中継ぎ投手として貢献し、2001年には球団最多の13勝をマークするなどチームの主力投手だった。



その後、日ハムを経て、2005年のオフに米大リーグに挑戦するため、ニューヨーク・メッツと契約を交わす。しかし、開幕メジャー枠に残れずマイナー落ち。翌年、ブルージェイズに移籍するが、ここでもメジャー登板はなかった。



このときのことを、入来はこう振り返る。



「米国で野球人生をまっとうできればいいなという思いだったが、2年間、まったく歯が立たなかった。アメリカに行って、俺ってこれくらいの選手だったのかって思い知らされた……」



結果を何も残せず、2007年帰国。入団テストを受けベイスターズの一員となるが、そこでも大きな成果が挙げられず、08年オフに戦力外通告を受けた。



「日本に帰ってきてベイスターズにお世話になったものの、まったくチームに貢献できていなかった。だから、シーズンの途中で『これじゃあクビだな』って自分でもわかっていたんです。球団から『来年は契約できません』って言われたとき、素直に『そうだよな』って……」



このときに入来は“プロ野球選手”としての人生に区切りをつけた。



「もう、選手として野球をやりたいとは思えなかった。その情熱がわいてこなくて……。今後の人生をどうしようか一生懸命考えるんだけど、何も思い浮かばなかった」



これまで当たり前のように野球界にいたので別の世界に行くことも考えられなかった。兄の智(さとし)さんがプロ野球選手を引退した後、飲食店に勤務し、苦労していた姿を見ていたからか、「まったく違う畑に行ったら、自分の人生はなくなる」という思いもあった。



「それで、その場でクビを告げられた球団の人に『何か仕事はありませんか?』って聞いたんです。その場で即答は、もちろんありませんでした。でも後日、球団からバッティングピッチャーの仕事が与えられました」



■用具係と選手という関係で向き合いたい



しかし、これまでプロの投手だったことが嘘のようにストライクが入らない。



「イップス(極度の緊張が原因で体が思うように動かなくなること)だったと思います。自分のためでなく、試合に出る選手のために投げていることに戸惑ったんです。自分が輝く仕事じゃない。自分になんの見返りもないということに心のどこかで葛藤があったんでしょうね。



野球に関わる仕事がしたいと思いながらも、自分はバッティングピッチャーもできないのかと思うと、もう野球を離れた仕事を探すしかないと腹をくくりました」






しかし、そんな入来にベイスターズは、用具係の仕事を用意した。



「そりゃあ、初めは抵抗がありましたよ。やりたい仕事だったわけではありませんから。でも、用具係ならプロ野球界に関わっていられる。今の僕がプロ野球と関わっていくためには、この仕事しかないですから」



用具係の仕事は、決して楽しいことばかりではない。



「でも、面白くない仕事でも、みんな歯を食いしばって頑張っている。つらい思いをしたり、いやなことがあったりしても、一生懸命生きている人がほとんどです。この立場になって、それがわかったんです」



現役でプレーしていたため、ベイスターズには顔見知りの選手も多い。しかし、入来は彼らと一緒に食事に行くことはあまりない。



「選手と食事に行くのは用具係の仕事じゃありません。裏方を始めたばかりの頃に食事に行ったこともありますが、選手たちと同じようにはしゃげない自分がいて、何か違和感があったんです。選手には選手の世界があって、そこは用具係の自分のいる世界じゃなかった。



僕は“用具係と選手”という関係できちんと選手と向き合いたいんです。プロ野球選手の先輩だからって、『入来さんには用事を頼みにくいなあ』って思われたくない。そういう雰囲気になるのはチームとしてマイナスですから」



用具係としてチームに貢献する。それが今の入来祐作のプライドだ。



「用具係は、選手たちが球場に足を踏み入れたら、何不自由なく野球ができるようにすることだと思っています。



選手たちの動きをよく見て、この場所にこれがあったら便利だろうなという道具を当たり前のようにそこに置いておく。ちょっとキャッチボールをしたいなと思ったら、そこにボールが置いてある。汗を拭きたいなと思ったら、そこにタオルが置いてあるというように……」






こうした入来の仕事をベイスターズの選手たちはどう見ているのだろうか。



「練習の流れとかもわかっているし、選手じゃないとわからないことにも気づかれるのでとても頼りがいがあります」(黒羽根利規・くろばねとしき/捕手)



「用具のことだけじゃなく、選手の気持ちになって、声をかけてくれるというのがうれしいです。調子の悪いときに『今は我慢するときだぞ』という言葉をいただいてとても励みになりました」(山口俊・やまぐちしゅん/投手)



鳴り物入りでプロ野球界に入り、大リーグに挑戦したものの夢破れ、バッティングピッチャーとしても役に立たなかった男が、それでも野球を離れたくないとたどり着いた場所が用具係という裏方だった。



そして、自分の経験を生かし、少しでもチームに貢献しようとする姿が関係者の評判を呼び、CMに起用されたことで、再びスポットライトを浴びることになった。



サントリー食品インターナショナルの広報は、入来を起用した理由を次のように話す。



「ファンに注目される日々ではなくても、入来さんの“野球に関わっていたい”という思いを描くことで、すべての“働く人たち”にエールを送りたかったからです」



自分が注目されている現状に対して、入来は言う。



「CMに選んでいただいたことはありがたいんですけど、プロ野球の主役は選手たちなので、ヘンに目立つのはいやだなと。用具係はあくまでも選手たちを支える仕事ですから……」



裏方に徹する入来祐作。試合が終わった後、選手たちが着たユニフォームを集め、ランドリー担当に引き渡すという仕事で、彼の一日は終わる――。















超一流の流儀

2014-09-02 19:50:53 | ☆カツ日記☆

ブルペン捕手から見た元阪神・藤川球児の「超一流の流儀」



--------------------------------------------------------------------------------



エースの響き~ブルペン捕手・中谷仁が見た「超一流の流儀」


 中谷仁です。私は今、子どもたちに野球を教えながら、自分自身も勉強の日々を送っています。

私は選手、ブルペン捕手として16年間プロの世界に身を置いてきました。

阪神、楽天、巨人、さらには2013年のWBCで数多くの超一流と呼ばれるエースたちの球を受け、彼らの凄さを知ることができました。

これまで私が彼らと過ごした貴重な時間を振り返り、彼らの人間性、能力の高さに迫りたいと思います。前回に続き、いまメジャーで頑張っている藤川球児についてお話させていただきます。




 球児が二軍から一軍に定着したのが、入団6年目、2004年のシーズン後半でした。

そして翌年にはジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに最強のリリーフ陣"JFK"を形成し、リーグ優勝の原動力となりました。

それでも彼は、常に向上心を持って野球に打ち込んでいました。


 2005年シーズンのある巨人戦でのことです。清原和博さんとの対決で、フルカウントからフォークで空振りを奪いましたが、清原さんは「男気がない!」と球児の投球を批判しました。これを聞いた球児は試合後、涙を流したそうです。ただ、このままで終わらないのが球児。

そして清原さんとの再戦で今度はストレート勝負で三振。その時、清原さんが「自分がこれまで見た中でナンバーワンのストレート」と言ったのですが、あの時は本当に自分のことのように嬉しかったですね。


 それがきっかけとなって、球児のストレートはさらに磨きがかかりました。

2006年にオールスターに出場した時、西武のカブレラ、日本ハムの小笠原道大(現・中日)さんといった強打者相手に「全球ストレートでいきます」と言って、本当にストレートだけで三振を取りました。

常時150キロを超す直球は"火の玉ストレート"と呼ばれ、わかっていても打てない魔球になっていました。

2005、2006年は最優秀中継ぎ投手、2007年、2011年は最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど、球界を代表するリリーフ投手へと成長しました。



 これだけの結果を残したのだから、順風満帆なプロ野球生活を送っているように見えますが、その陰で球児は大変な苦労をしていたんです。球児が絶頂の頃、私にこんな話をしてきたことがありました。

「(中谷)仁さん、しんどくなってきた。抑えて当たり前、打たれたら酷評される。これがリリーフの仕事やから仕方ないのかもしれないですけど、僕が打たれた次の日、子どもが『学校に行きたくない』と言い出したんです」

 おそらく、阪神ファンの子から「お前のオヤジのせいで負けた」というようなことを言われたのでしょう。

この頃の球児は、甲子園のマウンドに上がるだけで球場の雰囲気を変えてしまう投手になっていました。しかも、投げる球のほとんどがストレート。ファンの期待は球児の想像以上に膨らんでいました。

期待に応えたいという思いはあったと思いますが、このままでは厳しいということを悟っていたとも思います。


「みんなアメリカに行ってしまって、相談できる人がいなくなった。僕もアメリカに行って、一から挑戦したい。このまま日本でやっていたら、自分で築いた山を削られるだけ」と私に打ち明けてくれました。

もう一度、自分のピッチングを見つめ直したい。そのためにも、環境を変えて挑戦したいという気持ちがあったのでしょう。



 ただ、2013年にようやくメジャー移籍を果たしましたが、ヒジを手術したり、まだ満足のいく結果を残せていません。

憶測ですが、年齢も年齢だし、球の速いピッチャーだけならアメリカにたくさんいる。やはりメジャーで成功するためには、変化球が必要だと思ったのでしょう。確かに、道は険しいですが、これまでの経験を生かして、メジャーでもう一度輝いてほしいです。このまま終わるヤツではないですよ。


 球児とは、私が楽天に移籍するまで一緒にプレイしましたが、彼から教えられたことはいっぱいあります。

なかでも、ある日ブルペンで話していたことが今でも強く印象に残っています。

普通、ピッチャーというのはいいフォームで投げれば、いいボールがいくと思うものですが、球児はまったく逆の考えをしていました。

「いいボールがいけば、それがいいフォームなんだ」とあくまで結果重視なんです。「どんな投げ方でも、キャッチャーの構えたところに投げるのが僕の仕事」と。「そう考えているピッチャーは少ないのでは......」と問うと、球児はこう言い返してきました。

「仁さん、考えてみてよ。バッターが空振りして、『いいスイングだったからOK』とはならないでしょう? ピッチャーだって同じだと思う」

 さらに続けて、「仁さんが構えたところに投げて打たれたら、100%、仁さんのせいだから、そこのところは頼みますよ」とも。

それだけコントロールに自信があったのでしょう。実際、私の構えたところに寸分の狂いもなく、球児は投げてきました。


 実は、私の一軍デビュー戦(2002年8月11日)、マウンドにいたのが球児だったんです。この試合、先発マスクは矢野(燿大)さんだったのですが死球で骨折。

私は3番手捕手としてベンチにいたので、次に出るのが2番手捕手。さすがに出番はないなと思っていたのですが、2番手捕手の方がワンバウンドの球をうしろに逸(そ)らしたんです。

そしたら星野仙一監督(当時)が怒って、捕手交代。急遽、私がマスクをかぶることになりました。

とにかく緊張して、周りを見る余裕などなかったのですが、マウンドにいる球児の姿を見たときはホッとしました。

何度も二軍で組んでいましたし、どうリードしたらいいかも大体わかっていましたから。


 なんて思っていたら、コントロールのいいはずの球児がワンバウンドの球ばかり投げてくるんです。「あれ、今日の球児は調子悪いのかな」と思いつつ、とにかく必死にボールを止めていました。

そして試合が終わり、球児に「調子悪かったん? ワンバウンドばっかりやったな」と言うと、球児はとんでもないことを言ってきたんです。

「仁さん、なに言うてんの。ワンバウンドはわざとやで。2番手捕手の方はそれが止められなくて、代えられたんでしょ。でも、仁さんは止めた。そうすれば、仁さんの良さがわかってもらえるでしょ」って。

 私は配球を考えたり、ボールを捕ることに必死だったりで、球児がそんなことを考えていたとはまったく想像できませんでした。

その頃の球児は、まだ"勝利の方程式"に組み込まれるような投手ではなく、負け試合に登板するような存在でした。

自分も必死なはずなのに、私がアピールできるようにわざとワンバウンドを投げてきてくれたんです。



 球児のおかげで、それからしばらくは試合に出させてもらったのですが、結局、定着することはできませんでした。

せっかく球児がチャンスをくれたのに......。あの時にチャンスをものにできていればと思うこともありますが......悔しいですけど、仕方ないですね。私は先にユニフォームを脱ぎましたが、球児はまだ夢の途中。

彼のこれからの野球人生をしっかりと見届けたいと思います。