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上野――大宮――桶川――――――熊谷―【深谷】――神保原―新町―高崎
6月22日、前週の梅雨入り以来一週間ぶりに雨の薄い幕が降りた2007年夏至の朝。私は上記ルートをのた打ち回った。以下は午後以降のメディアを騒がしたらしいこのニュースの個人的ドキュメントである。
●前日築地~7:00上野
21日は午後からこの一か月半戦い続けた仕事を終わらせるため事務所のある築地入り。その前に汗を拭きつつ共楽でラーメン、途中で編集Oさんと沖縄料理屋で定食を食べつつ、ゆっくりではあるが確実に進み、22時頃最終は断念し、付き合ってくれたOさんとともに、J-WAVEヨーキングがやってる時間に全作業終了。家なら「第九」だ「アキレス最後の戦い」だといいながら、一人で完了とは別の心地よさを味わい、では電車が動くまでと周辺居酒屋で、音楽、社会、世代、仕事と、よくあるけど楽しい話題で朝を迎え、地下鉄から上野駅で年で一番早い朝の明るさの中、電車に乗って眠る。
●約7:20桶川
目がさめると深谷駅のような感じ。前にこれで動かず失敗したこともあり慌てて降りるとそこは道程半分ほどの桶川駅。このまずいジャッジがなければ、8時過ぎには家にいたかも。でもいいやと次の電車に乗り、しかしもう高校生登校時間で座れず、朝からのほろ酔い気分で得意のつり革睡眠、熊谷で座れて再び寝る
●推定8:10高崎
気がつくと「たかさきー たかさきー」。しまった朝からまた、上州に来ちまった。しかしここまではよくあること、すぐに上り列車に乗り30分で起きなきゃなと思いつつ安心してまた寝る
●8:30頃神保原
時間は携帯の発信記録から明らか。神保原駅で人が騒ぐのでなんだなんだと起きると、事故が起こって電車動かず復旧の見込みはないという。こっちは今まで寝てて、帰ってさらに寝るだけだからいいけど、一般のみなさんは大慌て。「いつになったら動くんですか」と駅員に詰め寄り者にベテランの駅員は慣れたもので「まったく復旧の見込みは立っておりません」、高校生どもも騒ぎ、別車両のお友達に携帯で連絡して合流する女子高生になるほどトランシーバー機能炸裂と驚き、「どうするオレ歩いてくよ!」と興奮の隣本庄の私立高校の制服の体育系男子に、こいつエライなサッカー部ならディフェンダーかなおれなら絶対行かねえなと自らのだめ高校生活を思い出してしまい、「うん、そう、じゃ、先生に連絡してみる、でもだめだったら歯医者、後でいいから」って何やら思いつめて話すキャリアウーマン風と、さすがにこの時間電車に乗っているのは、何時にどこにという明確な目的を持った人ばかりで、いざとなればここに泊まってもいいぜ、すまん、キャネットが遅れるなものども、などと思っているのは自分くらいだなと、こんなことでいいのかというような、ひょっとしたら恵まれているのではと思い、自宅に電話は出ず、ほかも心当たりに電話するが、20数キロ離れたところにすぐ迎えに来るようなヒマなやつはあまりいないと気づく。
そうしているうちに、「間もなく下り列車が参ります。熊谷より先お出での方は、この列車で高崎まで行きますと、そこから新幹線に乗車できることになっております」とアナウンス。多くの人々は希望に震えて移動し、私もこのままここにいるよりと下りホームに移動して乗車する。
ただで新幹線に乗れるならそれもいいかもと、じゃあ、熊谷から帰るにはバスで途中までとルートを考えてもいた。
●9:00頃新町
しかし「希望という名の電車」はあえなくとなりの新町でストップ。おつもと違う方向で知っている人に出会ったらしい女性が、「ホント、困っちゃって、高崎まで戻ろうと思ってるんですよ」と語っている。
今朝だけで二度目に越えた県境だが、ここで止まるなら乗らない方がよかった。すると今度はまた上りが来そうというの上りホームに行くと、駅から息子だかなんだかに電話しているおばちゃん、目的地は高崎でここまで来て高崎まで送ってってというとその息子だか何だかは承諾で、それなら最初からその方がいいのではないかとも思うがそういうものか。いずれにしてもおばちゃんには、そこまでして高崎に行かなければならない用事があるのだろう。
と、ここで何度目かのトライの後、父親と連絡が取れ、事情を説明すると今に出ているがでは救出に向かうという。「ありがとう、パパ」と口にしたわけではないが、サンダーバード兄弟のように感謝してしばらくすると、今度は上りが来るが、おそらく神保原で止まるだろうという。国際救助隊が来ることが判明しているこっちは余裕で、「あと何分くらいで来ますか、迎えに来てもらえるんですが、神保原まで行けるならその方がいいのもので」というと、対応に疲れたような改札駅員、いちいちほかの職員に、「あとどれくらうで来るかなあ」と大騒ぎ。「あと5分で来ますが、どうなるかはまったくわからなんですよ」。「いやあ、大変ですねえ」といって再び父親に電話して神保原に行けそうだというと、今度こそ希望のステンレス車両がすーっと。
●9:30頃神保原
ひとまず、数十分ぶりに神保原到着、しかし、止まるだろうと思われたステンレス車両は、そのまま本庄駅に向かって走り出していく。何だよ、じゃあ、そのまま乗ってりゃ、深谷まで行けたんじゃないか、と思いつつ、ならばご苦労様はわがお父様だぜ。といっても、駅員だって何もわからんのにまあそれなりにアカウンタビリティを発揮したんだ。しかたない、と思って清算して駅を出る。普通なら深谷から清算するやつが上りで来るのはおかしいが、まあ、すみませんと駅員はいう。いやいやお世話さまでしたと、雨がしのつく田舎町の駅舎に出ると、高校生の一団がその一名が持つワンセグ画面に見入り「やってるよー」。つまりニュースの一部になっているのがうれしいのだ。そういえば高校の頃、出もしないくせに予備校の夏季講習に申込に行った帰りにアメ横火災を山手線から見て、帰ってニュースをみたことがある。誰かのワンセグでみるというのがテクノロジーの進化だろう。事故のことは知らぬか今駅にたどり着いた人々は、へえ、まったく困ったねーと、その実嬉しそうな声を上げる。
不謹慎を承知でいうと、本当に切実な人が確かにいただろうが、多くの人は困ったようなことをいいながらアクシデントを楽しんでいるようにみえた。そういえば今よりずっと行き場がなくだらだらした日常を送っていた二〇代前半、どこだったか伊豆諸島の一つで噴火があった時、人々が体育館に避難する様子を映したテレビをみて高校からの友人ががこういったのをおぼえている。「あいつら、なんか楽しそうだよな」。いい悪いはともかくその時は私にもそう思えたし、それは今回、周りの人々から受けた印象に似ている。ニュースをみるのも私たち、ニュースに出るのも私たち。待っているなら何かが起こることよりねこの方がいいから、テレビはみなくなって久しい。
と思っていると、待ちかねたサンダーバード2号じゃなくて父親コルサがよろよろと登場。どうして17号方面からでなく高崎方面の小道から来るのだろうと思うが、さすがに四十年以上も息子をしていると、なぜかひねりにひねった道ばかり選ぶことは知っているので驚きはしない。どちらかというとオルタナティブなプロフィールの私と違ってもう二〇年近く会社員の弟もこの辺は父と同類でごちゃごちゃ道志向で、さらにいえば二人の息子を持つ叔母の話によれば、その二人の従弟も私のようなメインストリームタイプとごちゃごちゃタイプに分かれているらしい。
「おお、サンキュー、ご苦労さん、じゃあ、大変だからおれが運転するよ」というが、予想通り「いいよ」。たとえば姉の息子なんかと車に乗ると私は、「おめえ運転してけよ」というけどなあ。まあ逆らってもしかたないのでありがたく助手席に乗り、自分の車を置いていった塾まで二〇キロあまりのドライブとなった。
わかっていたことだけど、どうしてこんな道知ってんだという細かい道を通り、父親が定年後週に何回か通っていた本庄の高校や、やつがキャリアの最初に勤めた岡部を通り、JRの話とか私立高校の話、行政の合併の話やら、少しは親族の話など、それは何ごともない話ばかりで、何ごとか起こった話よりずっといい。思えば父親と二人で三〇分近く話したことなんてこれまでになかったかも知れない。
『帰れない一人』が父親の救助で『帰れる二人』として雨の中、岡部~深谷間の通称コスモス街道を通ったこの道中は、「北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで風が吹く」にならえば「大宮でパンタグラフが引っかかればへんな父子がコスモス街道を通る」。
●11:00帰宅
腹減らしのねこどもにゃん。
(タイトルは井上陽水・忌野清志郎の共作『帰れない二人』から。Phはその父が植えている自宅コスモスがもう咲き始めた。BGMはその『帰れない二人』をきこうと陽水『明星』をきいていると、さっき「父は今年二月で六十五……」という『人生が二度あれば』が……。Mon pere a soixante-quinze ans.)
6月22日、前週の梅雨入り以来一週間ぶりに雨の薄い幕が降りた2007年夏至の朝。私は上記ルートをのた打ち回った。以下は午後以降のメディアを騒がしたらしいこのニュースの個人的ドキュメントである。
●前日築地~7:00上野
21日は午後からこの一か月半戦い続けた仕事を終わらせるため事務所のある築地入り。その前に汗を拭きつつ共楽でラーメン、途中で編集Oさんと沖縄料理屋で定食を食べつつ、ゆっくりではあるが確実に進み、22時頃最終は断念し、付き合ってくれたOさんとともに、J-WAVEヨーキングがやってる時間に全作業終了。家なら「第九」だ「アキレス最後の戦い」だといいながら、一人で完了とは別の心地よさを味わい、では電車が動くまでと周辺居酒屋で、音楽、社会、世代、仕事と、よくあるけど楽しい話題で朝を迎え、地下鉄から上野駅で年で一番早い朝の明るさの中、電車に乗って眠る。
●約7:20桶川
目がさめると深谷駅のような感じ。前にこれで動かず失敗したこともあり慌てて降りるとそこは道程半分ほどの桶川駅。このまずいジャッジがなければ、8時過ぎには家にいたかも。でもいいやと次の電車に乗り、しかしもう高校生登校時間で座れず、朝からのほろ酔い気分で得意のつり革睡眠、熊谷で座れて再び寝る
●推定8:10高崎
気がつくと「たかさきー たかさきー」。しまった朝からまた、上州に来ちまった。しかしここまではよくあること、すぐに上り列車に乗り30分で起きなきゃなと思いつつ安心してまた寝る
●8:30頃神保原
時間は携帯の発信記録から明らか。神保原駅で人が騒ぐのでなんだなんだと起きると、事故が起こって電車動かず復旧の見込みはないという。こっちは今まで寝てて、帰ってさらに寝るだけだからいいけど、一般のみなさんは大慌て。「いつになったら動くんですか」と駅員に詰め寄り者にベテランの駅員は慣れたもので「まったく復旧の見込みは立っておりません」、高校生どもも騒ぎ、別車両のお友達に携帯で連絡して合流する女子高生になるほどトランシーバー機能炸裂と驚き、「どうするオレ歩いてくよ!」と興奮の隣本庄の私立高校の制服の体育系男子に、こいつエライなサッカー部ならディフェンダーかなおれなら絶対行かねえなと自らのだめ高校生活を思い出してしまい、「うん、そう、じゃ、先生に連絡してみる、でもだめだったら歯医者、後でいいから」って何やら思いつめて話すキャリアウーマン風と、さすがにこの時間電車に乗っているのは、何時にどこにという明確な目的を持った人ばかりで、いざとなればここに泊まってもいいぜ、すまん、キャネットが遅れるなものども、などと思っているのは自分くらいだなと、こんなことでいいのかというような、ひょっとしたら恵まれているのではと思い、自宅に電話は出ず、ほかも心当たりに電話するが、20数キロ離れたところにすぐ迎えに来るようなヒマなやつはあまりいないと気づく。
そうしているうちに、「間もなく下り列車が参ります。熊谷より先お出での方は、この列車で高崎まで行きますと、そこから新幹線に乗車できることになっております」とアナウンス。多くの人々は希望に震えて移動し、私もこのままここにいるよりと下りホームに移動して乗車する。
ただで新幹線に乗れるならそれもいいかもと、じゃあ、熊谷から帰るにはバスで途中までとルートを考えてもいた。
●9:00頃新町
しかし「希望という名の電車」はあえなくとなりの新町でストップ。おつもと違う方向で知っている人に出会ったらしい女性が、「ホント、困っちゃって、高崎まで戻ろうと思ってるんですよ」と語っている。
今朝だけで二度目に越えた県境だが、ここで止まるなら乗らない方がよかった。すると今度はまた上りが来そうというの上りホームに行くと、駅から息子だかなんだかに電話しているおばちゃん、目的地は高崎でここまで来て高崎まで送ってってというとその息子だか何だかは承諾で、それなら最初からその方がいいのではないかとも思うがそういうものか。いずれにしてもおばちゃんには、そこまでして高崎に行かなければならない用事があるのだろう。
と、ここで何度目かのトライの後、父親と連絡が取れ、事情を説明すると今に出ているがでは救出に向かうという。「ありがとう、パパ」と口にしたわけではないが、サンダーバード兄弟のように感謝してしばらくすると、今度は上りが来るが、おそらく神保原で止まるだろうという。国際救助隊が来ることが判明しているこっちは余裕で、「あと何分くらいで来ますか、迎えに来てもらえるんですが、神保原まで行けるならその方がいいのもので」というと、対応に疲れたような改札駅員、いちいちほかの職員に、「あとどれくらうで来るかなあ」と大騒ぎ。「あと5分で来ますが、どうなるかはまったくわからなんですよ」。「いやあ、大変ですねえ」といって再び父親に電話して神保原に行けそうだというと、今度こそ希望のステンレス車両がすーっと。
●9:30頃神保原
ひとまず、数十分ぶりに神保原到着、しかし、止まるだろうと思われたステンレス車両は、そのまま本庄駅に向かって走り出していく。何だよ、じゃあ、そのまま乗ってりゃ、深谷まで行けたんじゃないか、と思いつつ、ならばご苦労様はわがお父様だぜ。といっても、駅員だって何もわからんのにまあそれなりにアカウンタビリティを発揮したんだ。しかたない、と思って清算して駅を出る。普通なら深谷から清算するやつが上りで来るのはおかしいが、まあ、すみませんと駅員はいう。いやいやお世話さまでしたと、雨がしのつく田舎町の駅舎に出ると、高校生の一団がその一名が持つワンセグ画面に見入り「やってるよー」。つまりニュースの一部になっているのがうれしいのだ。そういえば高校の頃、出もしないくせに予備校の夏季講習に申込に行った帰りにアメ横火災を山手線から見て、帰ってニュースをみたことがある。誰かのワンセグでみるというのがテクノロジーの進化だろう。事故のことは知らぬか今駅にたどり着いた人々は、へえ、まったく困ったねーと、その実嬉しそうな声を上げる。
不謹慎を承知でいうと、本当に切実な人が確かにいただろうが、多くの人は困ったようなことをいいながらアクシデントを楽しんでいるようにみえた。そういえば今よりずっと行き場がなくだらだらした日常を送っていた二〇代前半、どこだったか伊豆諸島の一つで噴火があった時、人々が体育館に避難する様子を映したテレビをみて高校からの友人ががこういったのをおぼえている。「あいつら、なんか楽しそうだよな」。いい悪いはともかくその時は私にもそう思えたし、それは今回、周りの人々から受けた印象に似ている。ニュースをみるのも私たち、ニュースに出るのも私たち。待っているなら何かが起こることよりねこの方がいいから、テレビはみなくなって久しい。
と思っていると、待ちかねたサンダーバード2号じゃなくて父親コルサがよろよろと登場。どうして17号方面からでなく高崎方面の小道から来るのだろうと思うが、さすがに四十年以上も息子をしていると、なぜかひねりにひねった道ばかり選ぶことは知っているので驚きはしない。どちらかというとオルタナティブなプロフィールの私と違ってもう二〇年近く会社員の弟もこの辺は父と同類でごちゃごちゃ道志向で、さらにいえば二人の息子を持つ叔母の話によれば、その二人の従弟も私のようなメインストリームタイプとごちゃごちゃタイプに分かれているらしい。
「おお、サンキュー、ご苦労さん、じゃあ、大変だからおれが運転するよ」というが、予想通り「いいよ」。たとえば姉の息子なんかと車に乗ると私は、「おめえ運転してけよ」というけどなあ。まあ逆らってもしかたないのでありがたく助手席に乗り、自分の車を置いていった塾まで二〇キロあまりのドライブとなった。
わかっていたことだけど、どうしてこんな道知ってんだという細かい道を通り、父親が定年後週に何回か通っていた本庄の高校や、やつがキャリアの最初に勤めた岡部を通り、JRの話とか私立高校の話、行政の合併の話やら、少しは親族の話など、それは何ごともない話ばかりで、何ごとか起こった話よりずっといい。思えば父親と二人で三〇分近く話したことなんてこれまでになかったかも知れない。
『帰れない一人』が父親の救助で『帰れる二人』として雨の中、岡部~深谷間の通称コスモス街道を通ったこの道中は、「北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで風が吹く」にならえば「大宮でパンタグラフが引っかかればへんな父子がコスモス街道を通る」。
●11:00帰宅
腹減らしのねこどもにゃん。
(タイトルは井上陽水・忌野清志郎の共作『帰れない二人』から。Phはその父が植えている自宅コスモスがもう咲き始めた。BGMはその『帰れない二人』をきこうと陽水『明星』をきいていると、さっき「父は今年二月で六十五……」という『人生が二度あれば』が……。Mon pere a soixante-quinze ans.)
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