私の後見人である行政が医師へいくつかの質問を投げた。
その回答に時間がかかり、その後、私へ医師から直接連絡が入った。
私には行政が診断書を取り寄せながら支払いを拒否しているため、
「私」が立て替えて支払いをして欲しいといきなり言われたのが去年のクリスマスイブ、
が、医師は行政に対して「診察やセラピーの未回収分」と説明しいたらしいが、
もしそれであるならばあまりにも金額が大きいので、
また話の辻褄が合わなくなりますね、と担当者が説明、
私は当初の説明と相違するんですね、
やっぱり・・・・・・と思わず言葉とため息を漏らしたのは今日の午後だ。
ちなみに行政は医師が患者である私に診断書料を請求する一ヶ月も前、
その支払いはすべて終わらせてあると説明に加えた。
どのような説明をしたところで2万円近い金額を、一割負担になっている私の医療費請求をする場合、
数十回以上の未払い金を立証しなければならなくなった。
私は診察料はその都度支払いを終わらせているため、未回収となる分は百歩譲ってセラピーだけだ。
が、通院をはじめてからわずか5ヶ月程度の間で、数万になるということは考え難い。
また、電話診察費用とした12月分における3回の請求に対しても、
私が実際に診察をキャンセルするために電話で話をしたのはわずか一回、
その後、投薬ミスの指摘のために連絡をしたのが一回、すべてに金額がかかるのはおかしい。
不信・・・・・”の二文字が色を濃くし、脳裏に張り付いて離れようとはしない。
たまたま私が気付いたものの、障害は記憶を曖昧にするために、当事者が、
ここでは障害者である「私」を指しているが、本人がおかしさに気付くのは至難の業だろうと痛感する。
もし、今までの請求に対する説明がイコールにならなかった場合、
医師法に抵触するために、医師は医師としてなにも問われないということはありません、と
行政担当者は力強く言った。
後見人である東京都にも、経過報告として本日連絡を入れて情報を共有させますね、と。
今の段階で医師に対する不信を列挙することは控えようと思う。
が、障害者を抱える家族会との面談を明日に予定しているために、
今回の、障害者自身が問題に気付けない場合を想定して、意見交換を主題にした会議を明日開催。
病院、医師名の共有は当然のことながら、ひとつひとつ当事者間が乗り越えてきた問題を掲げ、
なにが家族サポートに必要であるか、どのレベルの、年齢の、性別の、
当事者には介助が不可欠であるかを話す。
私は自分のノートに目をやる。
何度も請求金額の説明が変更するのはいかがなものだ?と自問する。
医師との信頼関係を構築できないことは残念だと思う。
が、疑問の視点を持つ意義のようなものをあらためて心に刻む。
成功するまで諦めずに目標を継続させた者を成功者と呼ぶ。
ある偉人の言葉が思い浮かぶ。
そして、物事の統治の仕方を学んでいるのだと自分に言い聞かせる。
本音を言えばもう懲り懲りだ。
なぜ、この国が不透明なのだと関係者を殴って終わりできたらどんなに楽か・・・・・と思う。
社会的地位と人間の本質や職業上適職であるか否かは、学業成績とは比例せず。