風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

GWだというのに・・・・・

2008年05月06日 17時23分09秒 | エッセイ、随筆、小説






ネットで最近のニュースを閲覧していると、
全国で多発している硫化水素自殺などの記事の多さに言葉を失った。
と同時に「男性のストレスに目を向けて」とか「官民一体で対策を」と訴える。
でも対策をすれば済む問題なのだろうか?と自分に問うてみたものの、
数を減らせばいいという単純さではなく、
この国や社会や人という縮図が結果として「自殺者」を生み出しているのであって、
知人の何人もが「卑怯な者ほど堂々と生きている」と言っていたが、
私はそれに同調もしなければ批判もしなかった。
それは本当だろうし、それが当てはまらない部分もあるからだと感じたからなのだが。


米粒のように、狭い弁当箱にぎゅうぎゅう詰めになった状態、
今現在、社会から離れている私にとって、
人々の速度も、会話も、ときどき付いていけないと思うものが多く、
また、社会から離れてよかったと今は本当に思っているのだった。
昨日も「退職をして後悔していないか?」とか「大黒柱として不安はないか?」と質問を受け、
未婚で子供を産み育てるというレアな発想がどのようにして誕生したのかと聞かれたとき、
私にとってなんでもないことが、他者にとってはそうではないのだと学習した気分。


なにが正しいとか、なにがそうではないとか、
世の中には確かにそれを計るものさしが存在する。
でもそれは社会生活を円滑に営む上でのルールであって、
個人の人生の選択においては、幸せのものさしが決して同一ではない。
娘とも「しあわせのかたち」について昨日は遅くまで話し合ってみたが、
そこに答えなどないのだろうというところで「それが答えだね!」と言って私たちは笑った。


私が自殺について調べ始めたのは今から15年前のことで、
当時は誰もそんなことには興味関心など示さず、
厚生労働省が調査した死因を閲覧するために国会図書館へ足を運んだ。
なんのために図書館へ行くのか?と知人たちに聞かれるので正直に回答すると
随分とマニアックな分野だな・・・と失笑されるのがオチだった。


確かに当時、私はまだ20代半ばで、
周囲は洋服やブランド品やグルメなどが最大の関心事であるという時期に、
私はそれとは別に「自殺数」について調べていたのだから、変人に映ったのだろう。
でも今日においても日本人にとって「暗い話題=病気や死」については
タブー視され語る場が極少であるにもかかわらず(専攻科目の教授談)
社会が置かれた現実は、それとは未だにかけ離れているというのだろうか?という疑問だ。
「死生学=生の教育」を受け始めて思うのは、
それを忌み嫌う人がいて、日本では学問として成立しないという教授の言葉やそれへの憂い、
老いや死に対して敗北だと思う日本人の誤解が
そのような悲しい決断をしなければならない人たちに対しても
冷ややかな目でみる温床になっているのではと思うと妙に納得ができるのだ。



表面上は平和である日本、
でも実際に生き抜くという行為自体が困難であるのだろう。
後期高齢者医療費問題はじめ、
私が垣間見てきた医療や司法の現実は、
生きようとする者の意思を削ぎ取り、
必要な色素まで強力な漂白剤で「無」にする状態であったのだから
ふとした瞬間、ぽきっと枝が折れてしまう人がいても私には不思議には思えないのだ。



GW最終日、ニュースでは渋滞情報が流れていく。
西の空や雲や頬を染め上げていく緋色の色彩を眺めていると
私にはどうしても「生や死」を連想してしまい、
やっぱり変人なのだろうと首を縦に振る自分、
でもそれが私なのだからそれでいいのだ。



※不幸を目前にされたご家族などにとって私の発言が不快に感じる場合もあると思いますが
 どうか他意を含んだものではないことをご理解いただければ助かります。









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