騙されてあげてもいいのに、と思う。
賑わう酉の市の長い長い列に並びながら、引っかかってしまった言葉尻が脳裏に張り付いて離れない。
私の機嫌が悪いときは、多弁になるか、無口になる。
その極端さを知っている知人なら、そっと、その曲がった臍が真っ直ぐになるまで辛抱強く待つか、
それとも甘いものでも食べさせて、いつの間にかに忘れさせてくれる。
それが私自身でも厄介だと思う障害の正体だと理解してくれているためだ。
でも、それが彼にはうまく出来ない。
百歩譲って彼の味方をするならば、饒舌なわりには肝心なことについては不器用なのだろうし、
もしかしたら歳のせいもあるかもしれないと考えてもいい。
けれど、私は自分でもどうしようもない傷つきやすさを抱え、
自分でも予期出来ない状況において、棘のような言葉を心に突き刺したまま、生きなければならない。
それが高次脳機能障害としての私の症状のひとつなのだが、
果たして彼は私の、何を、どの程度、知っているのか・・・・・・に疑問を持つ自分に気付く。
日本人は病気の話やネガティブだと思われる重い内容になりがちな会話を避ける傾向にあると感じる。
だから、私が自分の症状の話をしようとすると、もう治ったも同然だと言って、一向に聞く耳を持たない。
病気の話をしたり、薬を飲んだりするから、治るものも治らないのだと他人事だから言える発言に、
私は感情を逆撫でされる。
私は病気や障害を共有しようとも思わないが、ひとりで抱え込むつもりもない。
誰か傍にいるのであれば、寄り添ってもらえたらどんなに幸せなのだろうと思うくらいのものだ。
それも贅沢な希いだとわかっているものの。
谷中にあるイタリアンレストランのバーカウンターで飲んでいた。
壁にはアフリカ系アメリカ人が描いたオレンジを基調とする線の細い黒人女性が佇む姿、
ジャズは楽曲を尋ねたものの、メモに残していないために誰の、何という曲なのか忘れた。
しとしとと降る雨がガラス張りのドアを色っぽく水滴で色のない色彩と夜を重ねていく。
酒の力を借りて、私の機嫌の、いつから、なにが原因で無口になったのかを思い出そうとする男の横で
美しくお洒落で美味しい野菜の盛り合わせを注文して、ぼんやりと雨を見ていた。
酉の市の、境内の最前列で、人込みにもまれながら言ったじゃない。
あなたがおしゃべり過ぎなければ、騙されてあげてもいいわよ、と。
私にいろいろな話を聞いてもらいたいことはよくわかっているの。
でも、私には、今の私には、障害との折り合いをつける手段を考えるだけで思考は占領されていて、
無駄に傷つく余裕もなければ、私を知ろうとできない人に割く時間はないように思うの。
だから、騙された振りができるように、健常で、私よりも大人なんだから、
甘える隙間をつくってえくれさえすれば、そこに滑り込んでいく術を覚えられるのに。
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