「あっこに何か白いもん置いてるの見えます?」と芸人が聞き、こっちの先輩芸人が「おお見えるで」と答える。なにもおかしくないだろうが気にしている私には引っかかる。ちゃんと調べればわかることを調べないで疑問のままにしておくのが、あーそーかー私の趣味なのかー。ぐうたらだ。
西のほうには「×××てある」という言い方はないのではないか。初めの文章での「置いてる」は標準語的というか昭和関東的には「置いてある」だ。「置いている」ではない。置いていると置いてあるでは主語が違う。壊れた地蔵を放置しているのはそのへんの不信心者だが、壊れた地蔵を放置してあるとしたら、ちょっと意味が違ってくる。地蔵尊を祀っているというのと地蔵尊を祀ってあるというのとではちょっと意味が…
ぐうたらだ。
で、今や音声から文字へとのびやかにその席巻を進める西の語法。7年後ぐらいには、置いてあるという言い方はおかしいと言われているかもしれない。
かまたさとしさんが書くABしゅしょう置いてけ堀。
を見てあらためて検索すると釣果は幻ってことで。
もとから見えない魚にABさんは置いてけぼっちだ。
子供の頃、おいてけぼりの語感はおきざりとひとりぼっちのミックスだった。オトナになって置いてけ堀の話を聞いても、 何度か聞いても、その語感は抜けない。
おいてけぼりをくった と言う。置いてけ堀語源にはその虚ろ感がない。
先日TBSラジオで、山根基世さんだったか、元NHKアナウンサーが質問に答えて
ことばは変わるものです
(意)と言ったその声が沈着過ぎて、逆に数十年の彼女のおののきを私は勝手につくり上げてしまう。TBSの男子アナにも近いものがあったのだろう、いまどきのアナウンサーに対して何か言いたいのではないかとにじるように食い下がったが、それを静かに流して彼女のことばをさらに継いでいた。
で、15年後ぐらいに、置いてけぼっちってふつーに使われてんじゃね?
ここまで書いて思い出した。私はこどものころオイテケボリってへんだよオイテキボリでしょ?と思っていた。