2019-06-07
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朝日新聞デジタル
元小学校教諭の澤野真寿美さん。大阪府堺市、重症心身障害者施設内、車いすに座った長男の祐輔さん。
苦労は多いけど、それと不幸は違うんです。
「障害者は周りを不幸にする」。植松聖容疑者の言葉は社会の一般的感覚だと思う。自分だってそうだった。
今は、違う。
子どもがこうなっちゃうと欲とか持てない。欲がなくなると、子どもってむちゃくちゃいとおしい存在になることがわかったんですよ。生きてるだけで十分。帰る時に『あんたきょうもようがんばったなあ、ありがとう』って言う。本当にそう思う。
これはじぶんが
生きてるだけでせいいっぱいじゃだめなのかと検索してたまたま出てきた記事でした。
私にはかっこいい知り合い、すてきな知り合いがいて、じぶんのだめさが浮き上がるというか凹み下がるというかで。
障害者非障害者ボーダーをよく考えるんですよ。考えるんじゃないな、つい思っちゃってるんだな。障害者が免罪符であるかのようにさ。
昨夜、荻上チキのラジオ番組。たまたま耳に引っかかった程度の入り方だった。難病罹患者の投稿が読まれていた。文字になっているものをアナウンサーなりが読み上げる。ゆっくりめだが明瞭によどみなく。
本人とリアル周囲のひととのコミュニケーションあるいは単なる感覚はかなり違うのだろう。ことばは、やっと聞き取れるかどうか、というときとスムーズに入ってくるときとでは、同じことばだよ完全に、でも意味はかわる。発するものを受け取ることで成り立つことば。
いずれ自分はただ生きているだけ、になる。大脳ははたらきつづける。
私は、ある寝たきりのうつくしい女性を思い出しました。きょうもあのベッドに細すぎるからだを横たえているでしょう。
部屋の掃除に入るとき、私は話しかけます。たのしいゆめみられましたか やら、うるさくてごめんなさい とか、もうすぐ終わります だの。しょうもない。しょうもないと思うのは、ただ寝ているだけのこのかたが常に覚醒しているかもしれないという微かな感覚が常にあるからです。
先日、NHKのシンプルイングリッシュでタニシなんとかとかいう昔話を扱っていました。私は知りませんでしたが、日本むかしばなし的シリーズの中でした。
子供は欲しいができなかった夫婦が授かったのはタニシだった。
タニシといえどよいはたらきをしいずれ人間かつ長者になっちゃうんで、やっぱり役に立ったりまともな風体をしてなきゃだめなんだなあという思いはわく。
んですが、この夫婦はたぶん役に立たなくても人間や長者にならなくてもそのタニシを大事にし続けたのだろうと思わせるわけですよ。そこなんですこころに残るのは。
(まとまったりしませんよ。意味ないセカイなんですよ、ここは。)
私がよく付き添いをする利用者さん男子推定23歳とは、なかなか意思疎通ができないことを前提にお付き合いいただいています。私の言っていることはたぶん伝わっているのに相手の言いたいことがほんとうにわからない。なぜそうなってこうなるのかわからない。
はっきり言って適当にごまかすようにしのいでいる、というのが私の立場からの感覚ですが、実際はですね、相手が大きく譲歩してくれている。
先輩に元小学校教師の女性がいて、別の利用者さん男子26歳を褒めます。ほんとに成長したと。29歳女子の利用者さんのことも、彼女もちゃんと成長してるのよ、とほんとうにうれしそうに言います。利用者さんのことをとても思っている、いいかたです。それを聞くたびに、だめな私は、成長しなきゃだめなの?という吹き出しマークをじぶんの中に噴出させています。
生きてるだけじゃだめなのか
成長しなきゃだめなのか
納税しなきゃだめなのか
勝手に死んでもだめなのさ
アピールできる人生でなきゃだめなんだ
褒められてうれしくならなきゃだめなんだ
きめるのはひとなんだ
ひととしてじぶんをみてゆるせなきゃだめなんだ
だからだめなんだ
ひとつでいい
つまりはコミュニケーション