新聞連載小説は昔日経のを読んでいたことはあるが、それ以外は気がつくと既に例えば第十何話になっていて話が見えないから、ということばかりだ。朝日夕刊の『悪人』も束芋さんの絵しか見ていなかったのだが、それこそ100話なんて過去のことみたいな或る夜、引き込まれた。
毎日熱心に読むわけではないが、とりあえずは必ず掲載面を開く。
家庭環境が悪いから犯罪を犯すという言い方は、例によって御都合的もしくは結果的なカテゴライズだろう。知人の少ない私でも、例えば片親もしくは両親がいない、被生活保護家庭、ヤクザの娘が、より柔軟で愛に満ちている例を複数知っている。
例えば自殺も犯罪だとしよう。
例えば、匿名でしか物の言えない人々のコミュニティーなりで私は、それぞれ個別に、あなた家族と離れて暮らしたほうがいいよ、と言ってやりたくてたまらなくなる。私の言葉によってひとり暮らしで死んじゃったら責任持てんから言わず、もしくはガス抜き程度に仄めかす。仄めかしなど意味はなく、強硬に言っても出られないひとは多いだろう。誰も拘束してはいないがされている。
ノモンハンの話じゃないが、閉じられた世界にはそこだけの規範がある。ひとというものは自分で考えることができるはず、ではある。しかし、それを悉くあるいはそれに近く否定され続ける。考えがそれに沿って変わってしまえば楽だが、自分を守るためにひとは考え、同時に自分を守るために自分の考えを否定する。相対し合う者同士も含め、誰もそれを知り得ない。
いくら書物やメディアでフツウを見て、ソレが正しい、コレはおかしいと思っても、実際的にはソレは誤りであり、コレはそういうものなのである。逆にイコールで結ばれた場合、たぶんそれが大抵とか常識とかいうものだろうが、真っ当な規範意識ということになる。規範意識というものは躾けるものではなく、身につくものだ。
家庭環境が悪いというのは、ただ片親だったり構ってもらえないということではない、金がないことではない、父親が飲む打つ買うではない。
嫌われ松子にあるのは自分を責める心とすがる心で、規範意識はない。普通に思われる父母であり、敬愛する父親の病弱な妹に対する愛情への嫉妬、満たされない感覚だけだったか、よく思い出せないが、これは逆に、家庭環境もいいのに、自分で判断するだけのIQもあるのに、と言われるのだろう。
それぞれ真っ当だと思われている両親から犯罪者が生まれる。犯罪に関してはDNAなども研究されているだろう。何らかの研究結果が出る。受胎したらDNA鑑定を受けて取捨する。それも恐ろしいことだ。
絵だけでなく文章に目が行ったその或る日の『悪人』で少し泣いた。次々と出てくる登場人物の事情は、面倒くさいので飛ばし読みしてはいるが、やはり少し面倒くさい事情らしい。
【追記(2007-01-29 09:08)】『悪人』のレビューでも内容説明でもなくて、ゴメンナサイ。
以前同じようなことを言ったときに反論のようなことがあり、例によって押し黙ってしまったことが形を変えて夢に出てきたための?追記。
それがつまり金がないということであったり、あれでありそれであるからカテゴライズされるわけだが、その形と、その形が生みやすいこととをカンタンにまとめてしまうことが、カテゴライズに対する反感の大抵というものではないか。
否定される、というのは、ブスだ、バカだ、てめえ死ね、とか、完全ネグレクトとか、そういう顕現的な否定を言っているのではない。
ちやほやされる否定もあるだろうし、とかね。それを存在の否定と言ってみたときに、それこそ捉える側のDNAとかということになってしまうのか。
最初に書いたときにうまく書けなかったことをここで書けるわけではなく、
この上の数行も、駄言の繰り返しということになるのだろう。
毎日熱心に読むわけではないが、とりあえずは必ず掲載面を開く。
家庭環境が悪いから犯罪を犯すという言い方は、例によって御都合的もしくは結果的なカテゴライズだろう。知人の少ない私でも、例えば片親もしくは両親がいない、被生活保護家庭、ヤクザの娘が、より柔軟で愛に満ちている例を複数知っている。
例えば自殺も犯罪だとしよう。
例えば、匿名でしか物の言えない人々のコミュニティーなりで私は、それぞれ個別に、あなた家族と離れて暮らしたほうがいいよ、と言ってやりたくてたまらなくなる。私の言葉によってひとり暮らしで死んじゃったら責任持てんから言わず、もしくはガス抜き程度に仄めかす。仄めかしなど意味はなく、強硬に言っても出られないひとは多いだろう。誰も拘束してはいないがされている。
ノモンハンの話じゃないが、閉じられた世界にはそこだけの規範がある。ひとというものは自分で考えることができるはず、ではある。しかし、それを悉くあるいはそれに近く否定され続ける。考えがそれに沿って変わってしまえば楽だが、自分を守るためにひとは考え、同時に自分を守るために自分の考えを否定する。相対し合う者同士も含め、誰もそれを知り得ない。
いくら書物やメディアでフツウを見て、ソレが正しい、コレはおかしいと思っても、実際的にはソレは誤りであり、コレはそういうものなのである。逆にイコールで結ばれた場合、たぶんそれが大抵とか常識とかいうものだろうが、真っ当な規範意識ということになる。規範意識というものは躾けるものではなく、身につくものだ。
家庭環境が悪いというのは、ただ片親だったり構ってもらえないということではない、金がないことではない、父親が飲む打つ買うではない。
嫌われ松子にあるのは自分を責める心とすがる心で、規範意識はない。普通に思われる父母であり、敬愛する父親の病弱な妹に対する愛情への嫉妬、満たされない感覚だけだったか、よく思い出せないが、これは逆に、家庭環境もいいのに、自分で判断するだけのIQもあるのに、と言われるのだろう。
それぞれ真っ当だと思われている両親から犯罪者が生まれる。犯罪に関してはDNAなども研究されているだろう。何らかの研究結果が出る。受胎したらDNA鑑定を受けて取捨する。それも恐ろしいことだ。
絵だけでなく文章に目が行ったその或る日の『悪人』で少し泣いた。次々と出てくる登場人物の事情は、面倒くさいので飛ばし読みしてはいるが、やはり少し面倒くさい事情らしい。
【追記(2007-01-29 09:08)】『悪人』のレビューでも内容説明でもなくて、ゴメンナサイ。
以前同じようなことを言ったときに反論のようなことがあり、例によって押し黙ってしまったことが形を変えて夢に出てきたための?追記。
それがつまり金がないということであったり、あれでありそれであるからカテゴライズされるわけだが、その形と、その形が生みやすいこととをカンタンにまとめてしまうことが、カテゴライズに対する反感の大抵というものではないか。
否定される、というのは、ブスだ、バカだ、てめえ死ね、とか、完全ネグレクトとか、そういう顕現的な否定を言っているのではない。
ちやほやされる否定もあるだろうし、とかね。それを存在の否定と言ってみたときに、それこそ捉える側のDNAとかということになってしまうのか。
最初に書いたときにうまく書けなかったことをここで書けるわけではなく、
この上の数行も、駄言の繰り返しということになるのだろう。