名古屋市博物館 特別展 「開山無相大師650年遠諱記念 妙心寺 禅の心と美」
「妙心寺の歴史を語る名宝の数々と、中部地方に所在する妙心寺派寺院が所蔵する貴重な文化財を紹介いたします。」とのことで私の興味は「第三章 戦国武将と妙心寺派寺院」のコーナーです。
主な展示は肖像画で織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗、前田玄以、福島正則、堀尾吉晴、稲葉一鉄、成瀬正成等武将が主なものですがそれ以外に注目の展示がありました(期間中展示替があったので2回訪れました)
豊臣棄丸像
豊臣棄丸坐像
豊臣棄丸所用 松竹鶴亀菊文童具足
豊臣棄丸 倶利迦羅龍守刀
豊臣秀吉の子、鶴松とも。わずか3歳で夭折した。
童具足は非常に小さく儚い。刀は蒲生氏郷が贈ったもの。
太原崇孚像
今川義元を内政・軍事両面から支えた。2人の関係は義元少年期に今川氏親(義元父)が崇孚を教育係に任じたことに始まる。そのまま僧となるはずだった義元だが父・兄の死により今川家の後継者争いがおこると崇孚等の尽力により当主となる事ができた。その後も崇孚は東で三国同盟を結び、西では三河まで進出してきた織田信秀(信長父)と激しく争った。1555年に亡くなったがもし彼が生きていれば桶狭間の戦の結果は変わっていたであろうと言われている。
快川紹喜像
美濃土岐氏の出。甲斐の武田信玄に迎えられて恵林寺に入寺し、信玄に機山の号を授けた。武田氏滅亡後、かくまった六角氏残党引き渡さなかった事から織田軍により焼討ちされる。このとき「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残したとされている。
沢彦宗恩像
織田信長が平手政秀の菩提を弔うために建立した政秀の住職。信長が斎藤氏を倒すと稲葉山城下「井ノ口」を中国の故事にならって「岐阜」と改名することを勧めたとされています。さらに「天下布武」の印も沢彦の案とされています。
彼等三人は全員臨済宗の禅僧です。そして戦国大名に少なからず影響を与えました。軍事、政治、精神面と多岐にわたっていますが不思議な共通点と言えます。
「西北隅櫓」特別公開
特別展開催期と同じ時期に名古屋城の西北隅櫓の内部公開がありました。西北隅櫓は清須櫓とも呼ばれています。名古屋城築城時清須城天守を移築したとも、あるいは資材を利用したものと伝えられています。
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