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岐阜県現代陶芸美術館 大織部展

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岐阜県現代陶芸美術館(セラミックパークMINO内)

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古田織部四〇〇年忌 大織部展
期間:9月6日(土)~10月26日(日)

前・後期拝見しました。

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古田織部 肖像画
京都・興聖寺蔵。豊後岡藩家老・古田広計が寛政9年(1797)に作らせた肖像画。梅鉢紋の入った萌黄色の羽織姿で右手に扇子を持つ。上部賛は春屋宗園が与えた「金甫」号の偈を広計自身が書き写している。
この他に豊後・高流寺旧蔵(現・大阪城天守閣蔵)の肖像画も展示されており、こちらも古田広計が作らせ着賛しています。
どちらも織部死後200年近く後の作品で、どれだけ本人に似ているのかは不明です。
御所丸茶碗 古田高麗
沓形の茶碗で口縁は玉縁、胴には箆目が一周する。
「御所丸」の名は織部のデザインを元に朝鮮半島で作られた茶碗を日本に運んだ「御所丸」船から採られている。古田織部所持とされ「古田高麗」の箱書きは小堀遠州筆。
萩茶碗 銘 是界坊
三角に近いゆがみ茶碗で高台は3つに割れた割高台となっている。全体渋めの枇杷色をしている。
萩焼は萩藩主・毛利輝元が命じて作らせたのが始まりとされています。その輝元の養子でもあった毛利秀元は茶の湯を織部に師事した人物。この是界坊のようにゆがみ・割高台の意匠からは織部が最初期の萩焼に関係したかもしれないと思わせるものが有ります。
薮内家五代竹心が箱書きに「織部ヨリ来」と書いており織部より初代剣仲に贈られたものでしょう。
消息 島津義弘宛 古田織部筆
(慶長十七年)十一月二十二日付。織部が惟新様(島津義弘)に宛てた書状。
薩摩での陶磁器製作のため弟子の上田宗箇を派遣した織部が出来上がった陶磁器を見て感想・意見を述べているが、宗箇が焼かせたものはヒドイ出来だと酷評している。また釉がよくない黒釉を多く、所々に白釉入れるのがよい、背は高く底はすぼまないようにと指導している。
この薩摩焼だけでなく織部好みの焼き物は各地で作られていました。直接・間接的に織部が指導した一端がこの書状からうかがえます。
竹茶杓 古田織部作
五島美術館蔵。櫂先やや幅広で露は右肩上がりににすぱっと削られている。節上にひび割れが生じている。
筒は堺の商人で茶人あった伊丹屋宗不作で「古織公」と記されている。
織部百箇状
京都・興聖寺蔵。巻子本で織部が千利休より伝授された茶法を記したもので107条よりなる。
巻末に大修理殿と宛名が記されているが、これは豊臣家家臣・大野治長のこと。
宗湛日記
博多の商人で茶人であった神谷宗湛が記した茶会(の写本)
ここに有名な一節が記されている。
「一 ウス茶ノ時ハ セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウケモノ也」
この茶碗を評した言葉、現代では織部その人を評する言葉となっているのが面白いです。
黄瀬戸建水 銘 大脇指
建水とは湯水を捨てる際に使う器で、こぼしとも呼ばれています。この建水は大ぶりで上部に黄色の釉が掛かり下部は素地がのぞく初期の黄瀬戸焼とされています。
大脇指の銘は姿が水指に似ているので、並んだ様子が太刀(水指)と脇指に見えるところからとも、常に腰の脇に置かれていたからとも云われています。
利休所持で芝山監物、千少庵から宗旦に伝わり、宗旦の時息子・江岑宗左が紀州藩に出仕する際に「利休大脇指」と箱書きし徳川頼宣に献上された。

基本的に紹介するのは初見のものが中心になる為紹介出来ていませんが、利休作の泪や園城寺。織部縁の破袋・老僧・勢高。光悦作の時雨に利休や織部の消息が沢山。さらに織部時代のやきものとして国宝・卯花墻(志野)、小原女(瀬戸黒)、冬枯(黒織部)や各地のものがどどーんと展示していました。これだけのモノを集めるのはかなり苦労された事と思います。
2015年は織部没後400周年(2014年は400年忌)に当たりますが果たしてこの展覧会に匹敵するものが出てくるのかどうか?なにか違うアプローチじゃないとこれだけ揃える事は無理だと思いますが、楽しみに待つ事としましょう。

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