いきなり奥の院から離れて徳川家霊台から。今回の主役は
「徳川家康」江戸幕府初代征夷大将軍。真田贔屓の私のからすれば憎き敵でございます(汗)
「徳川秀忠」二代将軍、家康の三男。関ヶ原の戦いでは真田昌幸・幸村の居城上田城を攻めたが結局落とす事が出来ず、関ヶ原には遅参した為合戦には間に合わなかった。この事があり真田昌幸を赦さなかったようである。
ここから奥の院へ戻ります。
「結城秀康」家康の次男であるが、長男信康死後も後継者になれなかった。さらに秀吉の養子(実質は人質)になったり結城家の養子になったりと秀忠に比べ扱いが悪い。
「本多忠勝」徳川四天王。「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八(忠勝)」と賞賛される。名槍「蜻蛉切」を持ち生涯において参加した合戦は五十数回に及んだ。彼の娘小松姫は真田信之の正室であり、その関係から昌幸・幸村親子が関ヶ原の戦いで西軍に与し戦後、死罪となるところを信之と共に助命嘆願し渋る家康・秀忠より高野山配流まで処分を軽減させることに成功した。
「榊原康政」徳川四天王の一人。第二次上田城攻めでは攻城に逸る秀忠に攻撃を取り止め、関ヶ原に急ぐよう進言した。また秀忠の失態に激怒した家康が対面を拒否した際、康政のとりなしで伏見城での対面が許されたそうである。忠勝とも仲がよく徳川武功派二巨頭といった感じがする。
「井伊家」徳川四天王井伊直政が初代藩主(彦根藩)。武装を赤色で統一し「井伊の赤備え」と云われた。真田の赤備えと対をなす存在か。
「酒井家」徳川四天王の一人酒井忠次の孫忠勝が初代(出羽庄内藩)。
「鳥居家」関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いにおいて、少数の兵をもって西軍と戦い討ち死にした鳥居元忠の孫忠春が初代高遠藩主。
「尾張徳川家」家康の九男義直が初代藩主。徳川御三家筆頭だが唯一将軍を輩出していない。
「徳川頼宣」徳川御三家紀伊藩初代、彼の孫が八代将軍吉宗である。越後流軍学者・宇佐美定祐を起用したり福島正則が改易されるとその家臣を登用したりとかなりの武断派であった。
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