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23GW 萩城下巡6 東光寺

萩をまだまだ巡ります。

東光寺
元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が創建した全国屈指の黄檗宗の寺院。
写真は総門

三門
文化九年(1812)10代藩主毛利斉熙が寄進した。

鐘楼
この鐘楼には元禄七年(1694年)四代藩主・吉広が寄進した大鐘があり、銘によると元禄七年五月十五日、すなわち当山開基の三代藩主吉就の葬儀が行われた翌日の日付が入っている。

大雄宝殿
本堂

方丈
寛政四(1792)年の建立。
玄関は二ヶ所あり、向かって左手は殿様用、右手は家臣用の玄関と言われている。

萩藩主 毛利家墓所
3代吉就から11代斉元までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並ぶ。

四大夫十一烈士墓(写真は四大夫と周布政之助の墓)
禁門の変の責任を問われた四家老や尊皇攘夷派の11人の家臣の招魂墓。また禁門の変の責任を感じて自刃した周布政之助の招魂墓も四大夫の隣にある。

ここからは阿武川を越えて南下します。

前原一誠旧宅
前原一誠は松下村塾塾生で、戊辰戦争では北越官軍参謀を務めた。新政府の木戸孝允、大久保利通らとは意見が合わず、明治3年に辞職し帰郷。
明治九年(1876)士族の不満が高まる中、明倫館を本営として挙兵(萩の乱)するも、失敗し首謀者として斬首された。

小川家長屋門
萩藩の大組士(500石)で、藩政末期の当主である小川厚狭佐は慶応元年(1865)から明治元年(1868)までの3年間萩町奉行を勤めた。

奥平家長屋門
萩藩の中級武士として大組(300石)に属していた。

周布政之助旧宅地
周布政之助は藩校明倫館に学び、俊才と評され政務役など要職を歴任して尊王攘夷運動を主導する一方、開国の時代に備え、伊藤博文・井上馨ら密航留学生(長州ファイブ)をイギリスに送り込んだ。
文久3年(1863)八月十八日の政変後は京都の失地回復に努めましたが、藩の政権交代で責任をとり元治元年(1864)自刃した。
この場所には、安政6年(1859)から数年住んだといわれている。

次回も萩から、更に南下します。
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