ただいま妄想中

夢、かつリアルな頭の中身をどこへ。

雑草も小石も

2008-11-13 16:55:50 | Weblog
本を読んでいると

文章が塊で、そこだけ浮かび上がってくる瞬間がある。

暗闇で輝く、一筋の光。


きのうの晩は、空という天井に
まるで電気がついているかの如く。

思わず空をあおいだ。

そうか。あおぐときっていうのは
無意識に、あおいでしまうものなんだ


『・・・「雑草が、小石までが光って見えるのです」っていうのは、
生と死が限りなく近づいた時、或いは、
生きていながら死を全身で受け入れようとした時、
「生死一如」と申しますか、そんな眼に見える風景っていうのは
あらゆるものが差別なく光って見える世界、そんな世界ではないか、
こういうふうに私は思うようになっていくわけです。』

「出会い・出逢い・出遇い」(自照社出版)
の中で、青木新門さんが著されたものの一部を抜粋。


光に出遇うことで、雑草も小石も輝いて見える。

どんな日も。光はたらく夜なんだなぁ・・・。
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おくりびと

2008-11-13 08:05:04 | Weblog
きのう。映画『おくりびと』を観て来た。
琴線に触れるとは、こういう事だった・・・と思い出す

今年のナンバー1どころか、確実に殿堂入りだろう

若院も私も、大の映画好きで。
過去から現在まで、かなりの数の映画を観てきたけれど。

こんな映画があったなんて・・・。すご過ぎる。


第32回モントリオール国際映画祭で、グランプリを受賞したとか。
まったくもって、うなずける

世界で理解される。国境を越えて、
同じ「人間」という土台の上で、通用する作品だと思う。


これを観ずに、死ななくて良かったなぁ、、。


映画を観て思うことが、あまりにたくさんあったので。
帰りの車で、延々と若院と語り合う。


まず、共通して。わたし達は納棺士ではないけれど、

人が亡くなる「ご縁」に携わる宗教者として
いかに重責を担っているかを、感じさせられた。


あとは。寺で生まれ育って、そういった環境に身を置く
わたし達と、世間の皆さんとの感覚の違いを知らされた。


これは、どちらが良いとか悪いとかの話ではなく。


身内であろうと他人であろうと
「死」―それも、目の前で心をえぐられるような―

を実際に体感しない限り
「命」に対する宗教的感覚が、なくて当然なんだなという・・・。


だからこそ、そこに携わっていく者として
どうあるべきなのか、、、をすごく考えさせられた訳です。

死とか宗教とか、忌み嫌われたりもするけれど。
本当は言葉で表せないほど、大切だったりする。

命を授かって必死に生きてきた人間が、
最期に嫌われてゆくなんて、悲しすぎることだし。

命を終えてゆく人から、わが身の命を知らされるものだし。


若院は言う「ただ寄り添うだけなら、誰でもできる。家族だって。
そこに宗教者が寄り添う意味というのは?寄り添い方とは??」

わたしも同感。これは永遠のテーマであります。


他にも、個人的に、細かな部分まで、
「命」について、いろいろ考えさせられました。


どんな生き方をした人間も、最期はみんな同じだなとか。


ちっとも説教臭くなくて、サラリとした映画なんだけれど。
むしろ、すごいものを扱っているのに面白い

山崎努さん、素晴らしくいい味です。

若院と二人して、カッコ良すぎるよぉ
と、しばらくの間、ぎゃあぎゃあ興奮していました。笑。


家に帰って、しんたいさん、から聞く。
「おくりびと」の原作は、青木新門さんというお念仏者なんだけれど
考え方の違いで、著作権を放棄されたとか何とか。

なるほど・・・そうだったのか・・・。
特定の宗教色が、出ていない映画だったけれど。

妙に通ずるところがあったのは、その為か

若院の忙しい合間をぬって、無理して観に行って良かった


日常に思い悩まれる皆さんも、楽しく過ごしておられる皆さんも
よかったら是非に・・・

追伸:写真は、道中寄った「キララ多岐」の海です。

コメント (5)
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