今年3月26日に北海道新幹線が開業したが、札幌までは遠い話である。
さて、若い時の話だが、1981(昭和56)年、6月21日会社の都合をつけて北海道の旅に出た。
これが、最近私が見つけた「北海道旅行記」の書き出しである。
逆算すると32歳の時だった。もう所々しか思い出せなかった旅行が、断捨離で整理中偶然に見つかりまざまざと思い出した。私にしてはかなりの量で詳しく書いてあり、そうだったかなと思うところもあり、面白い。やはりメモでも旅行記でもとっておくもんだな。
全てを公開する訳にも行かないから、多少は端折って書いてみよう。これは珍道中ではなく、世話になったA君への感謝のブログである。以下旅行記から。
天気は薄曇り。リュックを背中に喜びを胸に、つきみ野駅7時30分発の電車で羽田に向かう。
一人旅とは言っても北海道旭川に二つ下の尺八友人A君がおり、札幌から旭川まで案内してもらうつもりで気は楽だった。彼とは大学は違うし、歳も違うが、ある演奏会で一諸に演奏して親しくなった。
およそ1か月前、会社で休むべき休暇がたまっているとの事でその消化に努めるべく連休を必要とした。たまたまA君に誘われていて・・・実は結婚式には絶対行くと言ってあったのだがその兆候が見えないので・・・思い切って北海道旅行5泊6日の計画を企てた。
(その後昭和59年に彼は結婚式を挙げ、私も参列し、披露宴で春の海を演奏した)
羽田での飛行機は10時45分に離陸した。私は飛行機に乗るのは2回目だった。20分くらいで乱気流に遭いガタガタと揺れ出した。
窓外の左翼がゆっくり揺れる様がぶきみである。霧で翼がしっとり濡れている。
機長の説明があり、上空1万m、時速800㌔とのことだ。
太平洋側を飛行するのだが、日本の地図の通りにハッキリ見えた。
(その後の1985年8月、御巣鷹山の日航機墜落事故で坂本九ちゃんは亡くなったが、実は私の高校の一つ上、ブラバンで同じ楽器、しかも大学も同じ、長野県の寮でも同じ部屋だった先輩Mさんも亡くなった)
旋回して、千歳空港に無事着陸。ついにあこがれの北海道に。晴れているが、むし暑さは無く、からっとして気持ちが良い。
到着ロビーでは、すでに友人のA君は来ていた。
千歳には12時10分に着いたから、ちょうど昼飯という事で鮨屋に入る。特上の鮨は魚が新鮮でカニも乗っていた。ビールも一杯ひっかけ、早くもごちそうになった。
彼の車は青塗りのタウンエースだ。札幌に向かうべく有料道路を走る。
窓外の緑が新鮮で実にさわやかである。札幌に行く途中、羊が丘に寄る。
ここは遠く札幌市内を見下ろせる所で、市民の憩いの場所になっている。ちょうど行った日は日曜日で家族連れの姿も見えた。ジンギスカンの匂いをかぎながら、一路札幌市内に向かった。
市内は近代的な街づくりで都会である。東京の繁華街と何ら変わりない事を確認した。
車を有料駐車場に入れ、市内見学へと出かけた。
カメラ片手にまず、テレビ塔のある大通り公園へ出る。大通り公園では花畑で若い連中から老人までごろごろしている。とうもろこしの匂いがし、早速食べる。200円。冷凍物だが柔らかく、美味しかった。
テレビ塔の上まで昇ろうということでエレベーターに乗る。ここから四方八方が見られ足元を見るとフラフラする位高く昇っていることがわかる。
やがて降りて、降りたところで雪印のソフトクリーム160円を買う。これが最高の美味しさ。かつて田舎で食べた気がする昔のあの柔らかい牛乳たっぷりのソフトクリームであった。
テレビ塔の時刻は3時8分。そこから時計台、旧道庁、札幌駅を回る。
その後は、彼の親戚宅に伺う。宮の森の近くにあり、札幌オリンピックの会場となった大倉山シェンツェをバックにしていた。
すぐ大倉山に行き、ジャンプ台を見る。なだらかなスロープで下から見るとなんでもない様だが、上から見ると怖いだろう。上からは札幌市内に飛び込む感じとのこと。
親類宅で5時半から8時まで尺八の練習を彼とした。杵屋正邦作曲「尺八二重奏曲」、山本邦山作曲「壱越」など。
実は札幌にうまい尺八の吹き手がいるとのことで、その日会う事になっていた。相手は「疲れているから」と言われたが、紆余曲折を経て会えることになり、すすき野まで一杯やりに行く事に成功。N氏は車で迎えに来てくれたが、何と外人女性も同伴だった。
行先はすすき野の緑ヶ丘で、全国でも名だたる繁華街とのうたい文句どおり。
そこではジンギスカン、ビール飲み放題、食べ放題一人2500円と安く、生まれて初めてと言う位のジンギスカンは柔らかく、おいしくてどんどん胃の中に収まっていた。
ビールは中ジョッキ3杯。言う事なし。N氏は札幌都山流若手ナンバーワンだそうだ。
初対面でありながら、尺八が取り持つ縁で話が合った。
片や気になる外人女性は、27歳の美人ドイツ人。尺八のお弟子さんで3年習っているとの事で、曲は何でも出来、とにかく練習の虫らしく手に尺八ダコが出来ているのに驚く。
日本語は上手く、盛んに「どうぞどうぞお食べ下さい。ぜんぜん食べてないじゃないですか」と言われた。ドイツ語を学生の頃少しやったので、何となく話してみたくなり、「ダンケシェーン」や「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と単語を並べ「イヒリーベディヒ」なんてやったら、一生懸命に「発音が違う」と言って教えてくれた。
ナハトはナを強調して、あとは小さくすぼめる様にと手振りでも分かり易かった。少しはマシになったかな。
とにかくジンギスカンを食べ、ビールを飲んだのでもう腹はいっぱいだった。
再会を希望して0時に別れた。すっかりN氏にごちそうになった。
(その後何年かして、N氏と再会出来てご自宅に伺ったところ、その女性と結婚されてリカちゃん人形の様な可愛い女の子がいた)
A君ともう一軒「つぼ八」に行き、今度は日本酒にした。
炉端焼きで、焼きじゃが、アスパラ、カニカブト、エビ、メロン、パイナップルといったメニュ―で〆た。お銚子は8本飲んだようだ。
タクシーで親類宅に向かったがすでに深夜1時30分を回り、長い一日が終わり深い眠りに付く。
どうやら二日酔いの気配がありそうである。
彼からもらった消化薬「ザンビアン」を飲むのをすっかり忘れていた。
ブログは長くなりそうなので、初日はここで終了する。
旅行記は5泊6日の内、5日目の夜で終わっていたのは残念だった。どうしても6日目がはっきりと分からないから、今思い出せる範囲内で書こうと思う。
さて、若い時の話だが、1981(昭和56)年、6月21日会社の都合をつけて北海道の旅に出た。
これが、最近私が見つけた「北海道旅行記」の書き出しである。
逆算すると32歳の時だった。もう所々しか思い出せなかった旅行が、断捨離で整理中偶然に見つかりまざまざと思い出した。私にしてはかなりの量で詳しく書いてあり、そうだったかなと思うところもあり、面白い。やはりメモでも旅行記でもとっておくもんだな。
全てを公開する訳にも行かないから、多少は端折って書いてみよう。これは珍道中ではなく、世話になったA君への感謝のブログである。以下旅行記から。
天気は薄曇り。リュックを背中に喜びを胸に、つきみ野駅7時30分発の電車で羽田に向かう。
一人旅とは言っても北海道旭川に二つ下の尺八友人A君がおり、札幌から旭川まで案内してもらうつもりで気は楽だった。彼とは大学は違うし、歳も違うが、ある演奏会で一諸に演奏して親しくなった。
およそ1か月前、会社で休むべき休暇がたまっているとの事でその消化に努めるべく連休を必要とした。たまたまA君に誘われていて・・・実は結婚式には絶対行くと言ってあったのだがその兆候が見えないので・・・思い切って北海道旅行5泊6日の計画を企てた。
(その後昭和59年に彼は結婚式を挙げ、私も参列し、披露宴で春の海を演奏した)
羽田での飛行機は10時45分に離陸した。私は飛行機に乗るのは2回目だった。20分くらいで乱気流に遭いガタガタと揺れ出した。
窓外の左翼がゆっくり揺れる様がぶきみである。霧で翼がしっとり濡れている。
機長の説明があり、上空1万m、時速800㌔とのことだ。
太平洋側を飛行するのだが、日本の地図の通りにハッキリ見えた。
(その後の1985年8月、御巣鷹山の日航機墜落事故で坂本九ちゃんは亡くなったが、実は私の高校の一つ上、ブラバンで同じ楽器、しかも大学も同じ、長野県の寮でも同じ部屋だった先輩Mさんも亡くなった)
旋回して、千歳空港に無事着陸。ついにあこがれの北海道に。晴れているが、むし暑さは無く、からっとして気持ちが良い。
到着ロビーでは、すでに友人のA君は来ていた。
千歳には12時10分に着いたから、ちょうど昼飯という事で鮨屋に入る。特上の鮨は魚が新鮮でカニも乗っていた。ビールも一杯ひっかけ、早くもごちそうになった。
彼の車は青塗りのタウンエースだ。札幌に向かうべく有料道路を走る。
窓外の緑が新鮮で実にさわやかである。札幌に行く途中、羊が丘に寄る。
ここは遠く札幌市内を見下ろせる所で、市民の憩いの場所になっている。ちょうど行った日は日曜日で家族連れの姿も見えた。ジンギスカンの匂いをかぎながら、一路札幌市内に向かった。
市内は近代的な街づくりで都会である。東京の繁華街と何ら変わりない事を確認した。
車を有料駐車場に入れ、市内見学へと出かけた。
カメラ片手にまず、テレビ塔のある大通り公園へ出る。大通り公園では花畑で若い連中から老人までごろごろしている。とうもろこしの匂いがし、早速食べる。200円。冷凍物だが柔らかく、美味しかった。
テレビ塔の上まで昇ろうということでエレベーターに乗る。ここから四方八方が見られ足元を見るとフラフラする位高く昇っていることがわかる。
やがて降りて、降りたところで雪印のソフトクリーム160円を買う。これが最高の美味しさ。かつて田舎で食べた気がする昔のあの柔らかい牛乳たっぷりのソフトクリームであった。
テレビ塔の時刻は3時8分。そこから時計台、旧道庁、札幌駅を回る。
その後は、彼の親戚宅に伺う。宮の森の近くにあり、札幌オリンピックの会場となった大倉山シェンツェをバックにしていた。
すぐ大倉山に行き、ジャンプ台を見る。なだらかなスロープで下から見るとなんでもない様だが、上から見ると怖いだろう。上からは札幌市内に飛び込む感じとのこと。
親類宅で5時半から8時まで尺八の練習を彼とした。杵屋正邦作曲「尺八二重奏曲」、山本邦山作曲「壱越」など。
実は札幌にうまい尺八の吹き手がいるとのことで、その日会う事になっていた。相手は「疲れているから」と言われたが、紆余曲折を経て会えることになり、すすき野まで一杯やりに行く事に成功。N氏は車で迎えに来てくれたが、何と外人女性も同伴だった。
行先はすすき野の緑ヶ丘で、全国でも名だたる繁華街とのうたい文句どおり。
そこではジンギスカン、ビール飲み放題、食べ放題一人2500円と安く、生まれて初めてと言う位のジンギスカンは柔らかく、おいしくてどんどん胃の中に収まっていた。
ビールは中ジョッキ3杯。言う事なし。N氏は札幌都山流若手ナンバーワンだそうだ。
初対面でありながら、尺八が取り持つ縁で話が合った。
片や気になる外人女性は、27歳の美人ドイツ人。尺八のお弟子さんで3年習っているとの事で、曲は何でも出来、とにかく練習の虫らしく手に尺八ダコが出来ているのに驚く。
日本語は上手く、盛んに「どうぞどうぞお食べ下さい。ぜんぜん食べてないじゃないですか」と言われた。ドイツ語を学生の頃少しやったので、何となく話してみたくなり、「ダンケシェーン」や「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と単語を並べ「イヒリーベディヒ」なんてやったら、一生懸命に「発音が違う」と言って教えてくれた。
ナハトはナを強調して、あとは小さくすぼめる様にと手振りでも分かり易かった。少しはマシになったかな。
とにかくジンギスカンを食べ、ビールを飲んだのでもう腹はいっぱいだった。
再会を希望して0時に別れた。すっかりN氏にごちそうになった。
(その後何年かして、N氏と再会出来てご自宅に伺ったところ、その女性と結婚されてリカちゃん人形の様な可愛い女の子がいた)
A君ともう一軒「つぼ八」に行き、今度は日本酒にした。
炉端焼きで、焼きじゃが、アスパラ、カニカブト、エビ、メロン、パイナップルといったメニュ―で〆た。お銚子は8本飲んだようだ。
タクシーで親類宅に向かったがすでに深夜1時30分を回り、長い一日が終わり深い眠りに付く。
どうやら二日酔いの気配がありそうである。
彼からもらった消化薬「ザンビアン」を飲むのをすっかり忘れていた。
ブログは長くなりそうなので、初日はここで終了する。
旅行記は5泊6日の内、5日目の夜で終わっていたのは残念だった。どうしても6日目がはっきりと分からないから、今思い出せる範囲内で書こうと思う。